取材・写真:多和田ちえみ
〈Profile〉金城 寿(きんじょう ひさし) :中学校部活動の指導者をしていた頃、bjリーグ時代の琉球ゴールデンキングス シーズン開幕戦で目にしたレフェリーに憧れ、ライセンス取得を目指し研修生として審判の勉強を始める。レフェリーライセンス取得後、bjリーグレフェリーとして2014-2015、2015-2016シーズンで活動。Bリーグへのリーグ統合によりbjリーグレフェリーの活動も終了。その後、琉球ゴールデンキングスU15アシスタントコーチを経て、現在は同チームU18アシスタントコーチを務める。ラジオ番組でキングスホームゲームの試合解説を担当して今年で7年目。他、スポーツの話題を紹介するコーナーも担当するなど、多彩に活躍中。 |
「コートはチームが全てを懸けて勝負する最前線の場、まるで戦場ですよ」
かつてbjリーグでレフェリーを務めた経験を語る金城寿さん。
レフェリーとは、スポーツの試合に不可欠で重要な存在である。コート全体に気を配りながら、ルールに則り目の前の事象に瞬時に判定を下し、試合を裁いていく。毎試合決して同じシチュエーションはなく、想定外の事態も起こる。
レフェリー目線のバスケットボールとはどういう眺めなのか。
現在はbjリーグレフェリー時代に培った知識と経験を活かし、沖縄バスケットボールのシーンを様々な角度から支える。
そのひとつとして、琉球ゴールデンキングスホーム戦のラジオ実況解説を担当。ルール解説や戦術解説が添えられた、分かりやすく伝わる中継はリスナーから好評を得ている。
また、琉球ゴールデンキングスU18ユースチームのアシスタントコーチとしてユース世代の育成に携わる他、自身でバスケットボールクリニックなども実施しており、併せてレフェリーと選手間で起こる判定に対するギャップを埋めるべく、選手にもルールの理解を促す指南役を担う。
全ての活動において根幹をなすのは、bjリーグレフェリー時代から積み重ねた経験とレフェリーへの情熱だった。
金城さんのレフェリーへの夢を現実にした道のりと、bjリーグレフェリー経験談、第2章では現在の立ち位置からみえる沖縄バスケットボールのシーンなどを語って頂いた。
プロレフェリーへの階段
「レフェリーを目指したきっかけは、琉球ゴールデンキングスのホームゲームを観戦したことです。スマートに格好よく試合を進めていくレフェリーに興味を持ち、目指したいと思うようになりました。後日bjリーグのテレビ番組で審判員募集の告知を目にし、早速電話を入れました。レフェリー経験もライセンスもなかったので一度では希望が通りませんでしたが、諦めきれなくて4度目の電話でそれじゃあ履歴書を送って下さい、となりやっと研修生として入れることになりました」
研修は週末を使った2日間、座学と実践の場であるオンザコートのセット。毎月、多い時は月に2度、研修生として東京へ通う日々が始まった。
「座学は最初、ちんぷんかんぷんでしたよ。初日から3メンメカニクス(3人制審判)の動きから入ったので面食らいました。当時は今より2メン(2人制審判)が主流だったのでNBAでは観ていましたが、プロ以外の試合ではなかなか目にする機会がなくて。でも焦りはなくて、どうせマイナスベースの素人なんだから徐々にやっていこうと思っていました」
「講師陣から常に言われていたのが前回とは変わった姿を見せて下さい、という事。同じスタンスで講習会に来るんじゃなくて、少しでもいいから前回と変わった所を見せて、といつも言われていました。なので選手達に怒鳴られても毅然とした態度でいられる堂々としたプレゼンと精神力、それを表現するのに僕は注力しましたね」
実践の場のオンザコートでは関東実業団連盟のゲームや関東の大学1部リーグのゲームなどを任され、研鑽を重ねた。
「初めてのゲームは選手に殴りかかられるんじゃないか、というくらい怖くて。ミスコールや笛が吹かれなかったりすると選手が詰めよって来ました。繰り返し吹いているうち次第に慣れましたが、精神力が相当鍛えられました。また、東京で研修が入っていない週末はキングスホーム戦のTO(※)に入って勉強、他にキングスの戦評も書いていました」
スケジュールの合間を縫って県内で学生や社会人のゲームの他に、基地内アメリカンリーグのゲームのレフェリーを引き受けて経験を積み、バスケットボール漬けの毎日を送った。
※TO‥テーブルオフィシャルズの略。試合の点数や時間管理、スコアシートの記入などの役割があり審判と共に試合進行を担う。
重ねた挑戦の歳月
「試験は年に一度で、合格したのは4回目の挑戦でした。お金も時間も費やしましたが得る物も大きかったです。レフェリーの技術とかメンタリティもそうですが、一番はレフェリーとの人脈が収穫だと思っています。今でもつながっているおかげで他府県の方との情報交換ができています」
挑戦し続けた4年という長い道のりの中で、手応えはどう感じていたのだろう?
「やめたいというのはなかったです。1年目は超下手で、自分でも無理だと分かっていました。2年目、3年目と段々手応えはありました。毎回提供して頂いた資料で勉強しますが、それ以外では映像もたくさん見たし、見せ方や見られ方に力を入れました。走り方ひとつとってもそうです。汗びっしょりだと信用性がない、と言われている方もいました。レフェリーの前にアスリートなんだ、とよく言われていました」
経験もない状態から飛びこんだレフェリーへの道。研修の内容は想像していたものと大きく違っていた。
「研修を受ける前はルールや判定ばかりを習うとてっきり思っていましたが、逆にそれはあまり教えてもらっていない。やっぱりメカとプレゼン。良い判定をするには良い場所で良いアングルをとって、景色をしっかり見ないといけない。そこをしっかり教えられました。合格した後にはシーズン開幕前に3日間のキャンプがあって、ルール改訂の確認や判定の仕方をみっちり習いました」