OUTNUMBER RADIO #56 ゲスト : Shaolong To The SkyのGt.Vol.タマシイさん
1973年生まれ
沖縄市立 島袋小学校 卒
沖縄市立 コザ中学校 卒(バスケットボール部 所属)
沖縄県立 球陽高等学校 卒(バスケットボール部/軽音楽部 所属)
【Shaolong To The Sky】
2003年結成。G/VO 當山 貴史(トウヤマタカフミ)・Ba 上地gacha一也(ウエチ ガチャ カズヤ) ・Dr當間嗣篤(トウマツグアツ)が奏でるスリーピースロックバンド。 自ら主催するインディーレーベル真夜中レコーズより3枚のアルバムを全国リリース。
野球少年だったタマシイさん
小学校時代は野球部に所属し練習に汗を流していました。
野球を始めたのは小学校3年生の時友達の誘いを受けて入部。
自宅から小学校までが遠く、ジョギングをして登下校していました。
そこで鍛えた足腰は中学校で入部したバスケットボール部で活かされことになります。
小学生の当時、沖縄県出身で阪急ブレーブスに所属していた石嶺和彦選手のホームランに胸を膨らませていたタマシイ少年。
5年生になると、とあるクラスメートのシェイプアップのためにクラスで、チームを編成し早朝からバスケットボールをプレー。
6年生になってもバスケボールを続ける児童も多かったそう。
バスケットボールにのめり込む中学、高校時代
コザ中学校へ進学し、野球部へ仮入部するも一日でクビになり、
その後流れるようにバスケットボール部へ入部。
松島コーチに指導を受けます。
厳しい指導で好きなシュート練習も怖くなりプレーも萎縮するほど。
あまりにも厳しい練習でシュートを外すことが怖かったそうです。
その後、新設された球陽高等学校へ進学。
「バスケットボールもプレーしたい」
「でもバンドもやりたい」
という思いから、バスケットボール部と軽音楽部を創設し、二つの部活を両立。
バスケットボール部ではコーチが不在だったため、中学校とは打って変わり伸び伸びとプレー。
当時バスケットボールの強豪校だった同じ地区のコザ高校。
タマシイさんの一つ上の世代の美東中学校が全国制覇。その美東中と切磋琢磨してたのが嘉数中 北谷中 安慶田中 コザ中。強豪ひしめく中部地区の各中学校の猛者たちの多くがコザ高校に集まっていました。
そのコザ高校に練習試合で勝った時の喜びは格別だったそうです。
音楽との出会い
高校ではバスケットと並行してバンド活動もスタートさせます。
タマシイさんと音楽の出会いは小学生の時。
近所に仲の良かったお兄さん的な人がおり、カセットをもらって音楽に親しんでいました。
また、当時FM沖縄では「ポップンロールステーション」という番組で、洋楽をたくさん聞いており、気に入った音楽をカセットに録音していたそう。
世界紅白という洋楽や邦楽が一緒になった音楽フェスがあり、日本代表でメタルバンドの「LOUDNESS」や「佐野元春」など、テレビに出演しないシンガーソングライターに魅了され、中学校ではBLUE HEARTSに出会いバンドを組みたいと決意。
高校生当時、Dairy Queenというファストフード店でジュークボックスで音楽を聴きながらバンド仲間と毎日を過ごしていました。
将来の夢は獣医師
父親が獣医だったこともあり、自然と将来の目標は父と同じ獣医。
麻布大学の獣医学部を目指します。しかし、学長が変わり卒業生の子供だからといって簡単に推薦入学できる状況ではなくなり、また、「動物のお医者さん」という少女漫画が流行し、多くの女性が獣医師を目指すようになり、志願倍率が高くなったそうです。
そこから大学浪人を4年を重ねます。
浪人4年目からは、心は音楽の道へ傾き、本格的に音楽活動をスタート。
アメリカ留学から帰ってきた友人が組んでいたバンドに、助っ人ボーカルと参加した際、「タマシイ」という名前をつけてもらったそうです。
高校生の時に友人のおいちゃんから
「ギターのセンスがない」と言われ、vol.に専念していましたが
22歳の時にギターを弾いていると、センスがないと言ったおいちゃんより
「今の曲になるんじゃない❓」
と言われて、作成した楽曲が一番最初のオリジナル曲だったそうです。
そこで「バンテリンズ」→「エンガーフロンボール」とバンド活動を続け、
一度バンド活動休止。
クラシックギターやコード進行を勉強したのちにに結成したのが「Shaolong To The Sky」
その後は皆さんがご存知通り、様々な楽曲がCMでタイアップされ、
「愛の歌」は今や代表曲の一つとなっています。
「まだまだ磨かなければいけない所が多い」と語ったタマシイさん。
今後の活躍が楽しみですね!
【Shaolong To The Sky】