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松島良豪さんインタビュー③ 何かをはじめるときには人から文句を言われる 

【本土復帰50周年特別連載】
Okinawa Basketball Identity
松島良豪さんインタビュー

沖縄バスケットボールの歴史を巡る旅 松島良豪さんインタビュー③

バスケットボール王国と称される沖縄。その中でも「中部」「中頭(なかがみ)」(沖縄市、宜野湾市、うるま市、北谷町、北中城など)と呼ばれるエリアは、戦後米軍基地向けのテレビ放送をみることができたため、NBAやアメリカの大学など本場のバスケットボールが身近にあった。

アメリカの影響を色濃く受けた基地の門前街である『コザ』で、独特な感性を持ったバスケットボールプレイヤーを数多く輩出してきたのが故・松島良和氏をはじめとする『松島家』だ。

本土復帰50周年を迎える今年、OUTNUMBERは沖縄のバスケットボールの歴史を紡ぐ作業を開始した。

歴史を紡ぐためには沖縄のバスケットボールシーンに多大な影響を与えた『松島家』の歩みを知らなければならないとの結論に至り、現在は母校国士舘大でコーチを務める松島良豪さんに話をきいた。

インタビューではさまざまな内容に及んだが、彼の歩みから沖縄バスケットボールの歴史を巡る。

OUTNUMBER2018-19(Vol.2)では表紙を飾った元レバンガ北海道松島良豪さん

松島良豪(まつしまよしたけ)1992年2月3日生まれ。沖縄市出身。諸見小→コザ中→小禄高→国士舘大→西宮ストークス(現・兵庫)→レバンガ北海道。試合前の『劇団松島』として、バスケット選手らしからぬ華麗なダンスパフォーマンスを披露し、批判と賞賛を浴びた。Bリーグ1試合最高アシスト記録保持者(18アシスト)。2019-20シーズンに引退、現在は母校国士舘大でアシスタントコーチを務める。解説者としても活躍している。一昨年他界した父・良和氏は、バスケットボールの名門としてコザ中の名を全国に轟かせた沖縄を代表する名指導者

松島良豪さんインタビュー① 僕がコザの魅力を伝えるのであれば 

松島良豪さんインタビュー② 並里成にでーじ可愛がってもらった

何かをはじめるときは人から文句言われる

レバンガ北海道在籍時に『劇団松島』として試合前のダンスパフォーマンスで観客を楽しませ、Bリーグでも話題をさらった松島さん。

しかしながら、パフォーマンスをはじめた当初は周囲からたくさんの批判の声があがった。また、学生時代にはバスケットボールにおける考え方の違いから、周囲との軋轢も少なからずあったという。

それでも屈することなく自らの主張とチームとの調和を図りながらも結果を出してきた。過去のエピソードの中に松島さんのパーソナリティを垣間見た。

松島: 何かをはじめるときは人から絶対に文句言われるのは知っているんです。中学や高校でもよく言われました。僕は何か自分で新しいことをやりたい人なんだと思いますね。それで反感を買うんです。日本人は変えないことが多いじゃないですか。

例えば高校のときに、嘉陽先生という素晴らしい指導者がいて、前任の糸満高校で結果を残していたこともあり、どの選手もハイハイと聞いていたんです。けれども僕はなんか納得できないことがあって、先生が言っていることに対して『ちょっと意味がわかんないです』って反抗しはじめたんです。

反抗する人が出てきたときに、先輩とか同級生から「本当にやめろ」と言われるんですよ。それに対して僕も「何が?お前らが逆におかしい」と言い合ったりして。それで批判を受けることもありました。

大学では「それっておかしくないですか?だったらこっちのほうが良くないですか?」みたいに、それまでのやりかたを変えようとしたときにいろいろな衝突が何回もありました。

先輩が言うことは絶対みたいなところがあるじゃないですか。大学4年のときには、監督が来れないときに練習を任せてもらい、練習メニューを勝手に変えたときには部員から超ブーイングされました。

新しいことをやるときには周りから何かしら絶対に不平不満が出るものだと思いますが、その中で今までは結果を出してきたという自負はあります。Bリーグで1試合のアシスト記録を作ってからは、誰にも何の文句も言われなくなりましたね。

金谷: 今も破られてはいない、B1最多アシスト記録ですね?(2018年12月27日レバンガ北海道76-83千葉ジェッツ戦)

松島: あの試合は負けているんであまり見たくないんですよ。メインで出ていた多嶋さん(現・茨城ロボッツ)が怪我で、お前がメインでいくぞと言われ、初めてスタートを任されたんです。「うわ、どうしよう」と思いましたけど、自分にできることを一生懸命やろうと思いました。

強豪の千葉ジェッツに対して最初から終盤までリードをしていたんですけど、それでも最終的に逆転されて負けたのでめちゃくちゃ悔しかったです。あのとき初めてチームを背負って、自分の責任で負けたなと思いました。

その試合で18アシストを記録したんですけど、全然嬉しくなかったです。今振り返ればすごい数字だと思うところはありますけど。周りからも「18アシストしてるスゴイじゃん」と言われたんですけど、疲れていたことと負けたこととダブルパンチでかなりショックでした。

 

金谷: 試合に負けるのは疲れるじゃないですか?レバンガは強豪ばかりの厳しい地区で負けが多かったじゃないですか?相当タフでしたよね?

 

松島: そうですね。でも僕は負けたときにもあんまりみんなには見せないようにしていました。負けたとしても、明日頑張りましょうと声をかけていました。

負けても引きずらない、引きずっても仕方がないので。次の日元気ないやつがいたら声をかけて、お前が暗いとチームがダメになるから元気出していこうなとか。

冗談を言って通じる人、例えば折茂さんとかには、『マジで折茂のせいで負けた』って言いました。(爆笑)。

「あのシュートが入っていたら勝ってたから、実際」(松島)

「は?俺のせいか?」(折茂)

「でしょ?」(松島)

そういう冗談を言ったりするとみんな和むじゃないですか。でも冗談が通じない人には「お前がいないとうちのチームダメだよ」みたいな、みんなのモチベーションを上げるために。その役割はポイントガードでもありますし、自分はそれまでもチームを意識して動いていたので。

 

金谷: 中学時代から全体のことを考える性格だったんですか?

 

松島: 昔からそういう性格でした。小中学生のときにバスケをしているときはけっこう尖ったりしていましたけど。学校生活とかでも学級の雰囲気とか、そこまで考えていましたね。

 

金谷: 相当いい生徒じゃないですか

 

松島: いや、超生意気でしたよ(笑)。よく怒られたりもしましたけど、先生とも仲良くなることが多かったです。

中学の頃の思い出としては、一年生のときは本当に荒れた学級だったんです。先生が浮いてしまっていることをわかっていたので、先生が浮かないように僕は先生と仲良くしたんです。

そしたらその年の最後に、僕ともう1人の子だけが掃除で残っていたんです。本来はみんなで大掃除をして学年を締めるのに、みんなばっくれやがって(笑)。「最悪」って思いながらも2人で全部やったんです。

そしたら掃除が終わったときに、「あんたたちがいたおかげで先生は我慢して最後まで続けられたよ。これでマック食べなさい」と最後に先生から500円をもらったことは今でも覚えています。中学一年生で500円ってもらうことないじゃないですか。

 

金谷: めちゃくちゃ良い話ですね

 

松島: そういうこともあってチームの空気だったり、学級の空気を読むようにしていましたね。だから今でも、コーチしながらもわざと怒ったりとか、ふざけた怒り方をしたりとかいろいろ工夫しながらやっていますよ(笑)。

あとは中学3年生のときに合唱コンクールがあり、みんなでがんばったのに負けて、(学内6クラス中2クラスだけが出れる)最後の本大会に出れなかったんですよ。負けてみんなで超大泣きして。僕は次の日中頭地区の駅伝大会だったんですよ。でも大泣きしていてそれどころじゃなくて。

そしたら駅伝担当の先生が「お前の気持ちもわかるけど、お前がそんな顔していたら明日チーム負けちゃうぞ」って新しい靴をもらって励まされ、それを履いて大会に出たら区間賞を獲って、県大会にも出場しました。

 

金谷: 駅伝も速かったんですね

 

松島: コザ中と言えば駅伝が有名なんです。父はマラソン大会でバスケ部が負けることなんかはあってはならないという人なんです。走るメニューが陸上部なんですよ。いや、陸上部よりキツイです。えげつない量を走らされるし、タイム設定もおかしいんです。

陸上の季節になると朝練でとりあえずめちゃくちゃ走らされるんです。バレーボールコートを1週10秒とかでとにかく走らされる。それで校内陸上で負けようものならその日はバスケはできないんです。永遠に走ります。そのくらいうちの父は駅伝(というか走ること)を大切にしていました。

 

つづく

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