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OUTNUMBERは秩序が保たれ平和な社会が実現されることを祈念します。

本日8月15日は『戦没者を追悼し平和を祈念する日』です。沖縄バスケットボール情報誌アウトナンバーは国籍は関係無く、戦争で亡くなったすべての方への追悼の意を表するとともに、秩序ある平和な国際社会の実現に向けて努めます。そのためにアウトナンバーができることとして、6月15日に発売された戦後75年特別号の『OUTNUMBER4Q 平和と希望』より、日本のバスケットボールジャーナリズムの父・島本和彦さんによる寄稿記事を公開いたします。

【終戦75周年】 OUTNUMBER2019-20 4Q『平和と希望』

BASKETBALL SANCTUARY   島本和彦と行く 沖縄バスケットボール歴史の旅

沖縄basketball探索ツアー。 個性あふれるバスケはどこから来たのだろうか?

バスケットボールの考案者ジェームス・ネイスミスと島本さん(那覇市:ステップ・バイ・ステップにて)

ジェームズ・ネイスミスの想い
バスケットボールは冬場でも学生たちが意欲的に取り組むことができる屋内競技として考案された。
それまではサッカーやラグビーのように身体接触が激しいスポーツが多かった。バスケットボールは身体接触を禁止し、ゴールの位置を高く設定することで、コントロール性を重視した。教育目的であり、かつ平和的な起源をもつバスケットボールは世界中で愛されている。

 

バスケが育ち上るまでの風土やfoodの影響が必ずや存在する

1973年の月刊バスケット創刊からバスケットボールに縁をいただいてほぼ半世紀になろうとしています。何とも長くかかわってきたものです。その間、日本中、否、世界中を訪問(といっても一部ですが)させていただいていますが、すべてバスケットボールがらみの取材だったので今振り返ってみると楽しいこと、嬉しいことが満載の、このうえない経験・体験をさせていただきました。初期のころの雑誌企画の取材はまだ時間的余裕がありましたが、方向性も決まって来て 、大会の取材が多くなるとしなければならないことが多く、現地の体育館に着くとゲーム の写真を撮り、コーチやプレイヤーの話を聞き、宿・ホテルに帰って原稿やフィルムの整理、諸々の連絡を編集部と取り、その後に食事。全国大会だとこれが1週間ほど続くこともあります。だから、日本全国どこに行っても取材場所(体育館 、宿そして食事…の繰り返しのトライアングル)に終始します。まず一般的な“観光でもして”などという図式は成り立たないのです。変化があるとすれば食事がチョイ呑みになるという位ですかね そんな状態が落ち着いて来たのがかれこれ2010年位からのこと取材の旅の前後に時間を取って、一度は行っておきたかったところ、もう一度会いたい人を訪ねるなど 行く先々の行程にそれを加えていく旅となっていきました。バスケもスポーツではありますが、そこの土地にはバスケが育ち上るまでの風土やfoodの影響が必ずや存在するとボクは思っていて、それは、いまや確信に近くなっているからです。

戦争を知らない。だから沖縄での壮絶な戦争の跡をたどり知りたい

さて、そんな中で日本国内でバスケを絡めて行くならばここというお薦めの地はボク の中では1、2を争う沖縄です。bjリーグ時代に琉球ゴールデンキングスが誕生してから何度かTVの解説で訪れておりましたが、御多分に漏れず前記したバミューダならぬ、バスケ・トライアングルに吸い込まれていました。バミューダ…が分らない人はググってみてください(笑) そんな状態からいつかは脱却したいと考えていた時に知り合ったのが、沖縄バスケットボール情報誌OUTNUMBERの金谷康平編集長でした。バスケをミニから大学まで、東京でず~っとやっていて、月バスで育った(ここが大切)。さらにお母さんが沖縄出身というバックグラウンドの方です。話は早かったです。ボクの生まれ年が昭和21( 1946)年、第2次世界大戦終戦の翌年で、戦後生まれ第1号ですから戦争を知らない。だから沖縄での壮絶な戦争の跡をたどり知りたい、そして遅いかもしれないけれど勉強したいという気がありました。話に聞くだけで現地には行っていなかったので、それらの影響を感じつつ沖縄のバスケを探ってみたいと伝えたのです。快諾していただきました。2023年に沖縄でワールドカップがフィリピン、インドネシアとの共同で開催されることが決まっているので、バスケの意識とムード高揚のための、バスケットボール・ジャーナリズム・ミーティング2019沖縄 (以降BJM)を開催するのでそのついでにということになりました。ありがたいことでした。

OUTNUMBER2019-20 4Q『平和と希望』より 沖縄県内書店・コンビニで販売中

 

南部の戦跡をめぐり、平和であるからこそスポーツができると実感

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2019年7月第1回目の沖縄バスケットボール歴史の旅 

2回に分けたその沖縄バスケットボール文化探索の旅の第1回は、2019年7月下旬に行いました。ボクが那覇空港に到着すると、一気に南に下り沖縄戦の戦没者慰霊碑のある摩文仁の沖縄県平和祈念資料館の見学。充実した展示や映像なども含めかなり重い内容で、色々考えさせられるものがある資料館です。平和の礎(いしじ)もふくめて絶対に外せないスポットと感じます。かなり時間を取らせていただきました。この日はその夜BJM2019がありました。2日目はひめゆり平和祈念資料館、ここもどうしても訪れたい場でした。悲惨な展示写真の中に沖縄県立第一高等女学校のバスケットボール部の笑顔の集合写真があったのは、ホッとすると同時にかなりインパクトの強い印象的なものでした。平和であるからこそスポーツを普通にできるという幸福感が感じられる1枚でした。その後、中部のうるま市に移動。無名の辺士名高校 1978 を全国3位に導いた安里幸男先生のご自宅に創られた“安里バスケットボールミュージアム”で高校バスケの真髄に触れるのも嬉しいものです。沖縄バスケここにありと、全国に印象付けた先生の約40年間の指導の記録が整理されています。伝説的指導者の安里先生は1991年に北谷(ちゃたん)高校も3位に導き、人気コミックの“スラムダンク”の陵南の田岡監督のモデルと言われています。高校バスケファンには必見の見応えのある資料館となっています。そしてハードな見学の後はソフトに行きましょう。北谷のベイサイドに琉球ゴールデンキングスのオフィシャルグッズショップのキングスクローゼットがあります。凄くおしゃれなお店で素敵なグッズがたくさん。思わずここはアメリカか?と思うまでのセンスの良いお店でした。アラハ(安良波)ビーチにはステキなバスケコートがあります。日本で一番の美しいロケーションのコートだと思います。沖縄を旅するならば短パンとTシャツがベストだと思いますが、空いていればそのまますぐにプレイできますし、HOOPが3つありますから大体大丈夫でしょう。

 

3ポイントおじいに宿る不屈のメンタリティ

首里城公園を散策。守礼門の前にて

ウチナンチューの魂『不屈館』はマストと言えます

さて、2度目の沖縄バスケットボール文化探索の旅は、コロナ騒ぎの寸前の3月末。東京は寒いし雪は降るはの時の逃避行となりました。今回も到着してすぐに昨年10月31日に火事でメインの建物を焼失した首里城を訪ねました。外側の建造物は残っていて現在中心部の燃えた部分を整理している最中でしたがその概要を見ただけで壮大さと素晴らしさが分かります。まだ修復には何年かかると思いますが、那覇に来た時にはまた訪れ、完成した姿を見たいところです。そして前回にアラハビーチでお会いした“3ポイントおじい”の宮城善光(みやぎぜんこう)さん。バスケの経験はないものの、50歳を過ぎてから健康のためにシュートを始めたところメキメキ上達。3ポイントも届くようになり、コートに来る若者と勝負している強者です。25年の間に2500勝しているというビーチの有名人です。その中には米軍の猛者やプロのプレイヤーもいたといいますから驚きです。その宮城さんが着ていたTシャツには不屈という文字がプリントされていました。おじいのモットーかなと思って聞いたら、彼の尊敬する不屈館(瀬長亀次郎記念館)のTシャツでした。亀次郎さんは元那覇市長、政治家で復帰前の米軍の統治下の施政に徹底的に反抗した方で“米軍が最も恐れた男カメジロウ”と言われた人。その業績を残した記念館も訪れましたが 、現在も続いているいろいろな問題はどこから来ているのか?と言うことが理解できるところですので、マストと言えます。大変勉強になりました。この後、コザで個性的なセレクションで名画を見せてくれる映画館、シアタードーナツで第2回目のBJM。メディアに関わる皆さんの考えが分かる面白い集いでした。このような地味ながら光る催しを繰り返すことよって、FIBAバスケットボールワールドカップ2023の認知度は上がっていくものと思われます。

レジェンド同士の奇跡の2ショット

瀬長亀次郎の実の娘である『不屈館』(那覇市)館長内村千尋さんと島本さん

https://a-port.asahi.com/projects/keep-fukutsukan/ 

『不屈館』瀬長亀次郎と民衆資料を守りたい!!クラウドファンディング実施中

ヤンバル(沖縄北部)にこそ 沖縄バスケの神髄がある

深い緑と青い海、自然豊かな辺士名高前にて


甦る1978年夏の記憶『辺士名旋風』

さて、沖縄人はウチナンチュウと言われますが彼らが北部という、地図で言えば上の方は本土の人にとっては未知の土地と言っても良いかもしれません。まったく寒くない最北端の辺戸岬の手前にある辺士名高校も訪ねました。緑あふれるヤンバルの山に囲まれ、目の前は真っ青な海というロケーション。ここであんなセンターが180㎝ないちびっこチームで全国3位になったチームが練習をしていたのか?と感慨深いモノがありました。1980年に初めて秋田の能代工高に行った時のことが思い出されました。ビックリしたのは学校の裏に安里先生の実家の雑貨屋の様な文房具屋さんがあったこと、思わず写真に収めてしまいました。

やんばるの仙人こと金城吉弘さんと島本さん

ヤンバル仙人、奇跡の写真家との出会い

その後は山の中を10分から15分入って仙人のような生活をされている金城吉弘さんのお住まい訪問。安里先生の1年後輩にあたる方ですが実に若い!きれいな風景、良い空気、オゾン一杯の中で生活するとこうなるのかという見本のような人。勝手にヤンバル仙人と呼ぶことといたしました。彼が80年代中盤から、2000年代にかけて約20年、沖縄出身の選手を趣味で3万枚以上撮影した写真のアーカイブスがある。それを見ているだけで時間は とめどなく過ぎ去ります。 思わず「僕が現役の頃に会っていれば写真を使わせてもらったのに…」と言ってしまったほどの腕前でした。隠れた逸材と才能はどこにも存在するということをまたまた宮城さんに教わりました。

北部唯一のバスケショップ『ランクアップ』(名護市)


沖縄県内のユニークなバスケットボールショップを巡る

北から帰る途中には沖縄のバスケ文化を支えるバスケプロショップ1軒1軒に寄るのも楽しい。名護市のRankUpランクアップ 、那覇市のLOCKER そしてstep by stepPORTA AND GATE(ポルタアンドゲート)というヴィンテージショップにもよりました 。時間がもっと欲しいところです 最後の締めの食事は酒処色珠(いろみ)。アルビレックス新潟時代から旧知の元キングスの小菅直人(こすげなおと)さんのお店、新潟の名産の日本酒や新鮮な生ものが美味しい嬉しい場でした。駆け足の最後になってしまいましたが、今回はバスケと沖縄の文化を中心にした探索ツアーになっていますが、このほかに一般的に観光客が訪れる場はもっとたくさんあるのは 皆さんの方がご存知だと思います。ぜひそれらを含めて自分なりにプランを計画し楽しまれると良いと思います。

国際通りにあるLOCKERにて(那覇市)

http://locker-okinawa.com/

PORTA AND GATE宮城店長と(那覇市)

https://portaandgate.com/

モノレール美栄橋駅前のステップバイステップにて(那覇市)

https://okinawa-stepbystep.com/

旅の締めは酒処色珠にて(那覇市)

 

【終戦75周年】 OUTNUMBER2019-20 4Q『平和と希望』

BASKETBALL SANCTUARY   島本和彦と行く 沖縄バスケットボール歴史の旅(6月15日発売)より

https://outnumber.thebase.in/ 購入はこちらから

NBAと同級生 島本和彦氏のプロフィール

1946年8月18日生まれ。東京都出身。玉川大学文学部卒。高校3年時に東京五輪が開催され、幸運なことに仕事で観に行けない大人たちからたくさんの観戦チケットが廻ってきた。当時は、オリンピックのために休暇をとると会社に居場所がなくなるような時代だった。社会人となり『月刊バレーボール』を発行する日本文化出版に入社。東京五輪から正式種目となったバレーボールでは、東洋の魔女といわれた女子は金メダル、男子は銅を獲得。続く1968年メキシコ大会では男女ともに銀メダル。1972年ミュンヘン大会では男子が金、女子が銀と男女ともに3大会連続でメダルを獲得したことにより、爆発的な人気競技となっていた。日本バレーの躍進を受け、1973年に新事業として『月刊バスケットボール』が立ち上がった。実は島本氏が学生時代から打ち込んできたスポーツはバレーボールであった。ゼロからのバスケットボール雑誌の立ち上げの責任者となり、ありとあらゆることにチャレンジした。当時日本では情報入手が困難だった海外のバスケットボール(NBA、NCAA)にも手をつけた。NHKでNBAの放送がはじまった際には解説を任された。選手や監督の人物像、文化的背景など豊富なストーリーを盛り込み人気を博した。2020年からは能代市から『能代ふるさと観光特使』に任命されている。今回の企画である沖縄のバスケットボールと歴史の旅を通して、全国のバスケットボールファンに沖縄の魅力を届けている。

 

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