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とある夏の日、金谷編集長のもとへ一本の連絡がありました。「沖縄バスケットボールの歴史を聞かせてほしい。」彼の名はもう知れ渡っているかもしれません。昨夏、指導者の勉強をしたいと単身渡米、シカゴ大ミシガン州立大米大学バスケットボールを実際に肌で感じ、多くの学びを得て帰沖しました。コネクションもアポイントメントも持たず、熱意のみで道を切り開いた沖縄の青年、仲村匡世(なかむらまさと)さんと、OUTNUMBER金谷編集長のロングインタビューを丸ごとお届けいたします。 (以下、敬省略)

金谷編集長を訪ねた仲村匡世さん

 

聞かせてください、金谷さんについて。


仲村:卒業論文なんですが大枠は決まっているんですけどどこからバスケットボールの情報を集めようかとなった時に、沖縄で【OUTNUMBER】を発行している金谷さんにお聞きしたほうがいいかなと思いまして。

 

金谷:そうですね、いろいろな所に行ってはいますよ。

仲村:金谷さんについてもお聞きしたくて。確か沖縄出身ではないんですよね?

金谷:出身はですね、東京都豊島区です。お母さんが那覇の出身です。

仲村:なるほど。バスケットボールはずっとされてたんですか?

金谷:僕が1983年11月5日生まれなんですけど小学校高学年くらいから始めましたね。

仲村:その年代だったらバスケットボールがだんだん有名になりつつある時ですね。

金谷:流行りつつあるけど僕が4年生の時にJリーグができて、その前までは野球がメジャースポーツで僕も1年生から野球やってました。

仲村:最初からバスケットボールってわけではないんですね。

金谷:はい。で、Jリーグが誕生するとユニフォームはテカテカでハーフパンツだしかっこよくて、サッカーもよくやるようになったんですよ、遊びで。

そのあとNBA好きの先輩と遊ぶようになって、バスケットボールやるようになっていきました。サッカーも割とできたけど4年生から始めているから極めるには遅いかなと思って。バスケットボールも自分には合ってたのでのめりこんでいきましたね。

 

東京育ちとバスケットボール


仲村:っていうことは中学校からは?

金谷:それが、入った中学校にバスケ部なくてドーナツ化現象で全校生徒でも200人切るような規模の学校で、一学年2クラスしかなかったので部活が野球部もない、バスケ部もない、運動系はサッカーか陸上、卓球くらいしかなかったんです。その時は一応陸上部に入って実はアルペンスキーもやってました。2年生になって校長先生が代わってバスケ部作ってくれてすぐバスケ部入ったみたいな。

仲村:バスケットボールとの出会いは小学校からあったんですね。

金谷:そうですね。週一回日曜日の10時から30分間のNBAのハイライト、それめっちゃ観てましたね。それを観てNBAにめっちゃはまりました。

仲村:時期としてはマイケルジョーダン?

金谷:ペニー・ハーダウェイとかジョーダンの時期、ジョーダンが一度引退した頃1994年、5年くらいですね。で、1996年にアトランタオリンピックがあって、96・97・98とブルズが2回目のスリーピートやってる時期ですね。

仲村:一番面白い時期、そうとう熱い時期ですね。

金谷:仲村さんは13歳下だからもうジョーダンの時代は終わってた?

仲村:僕が観てた時はコービーですね。

金谷:コービーは好きだった?

仲村:好きというかNBA観たらコービーとかレブロンとか自然と観ちゃうという。アイバーソン好きでしたね。じゃあ高校ではバスケットボールは?

金谷:中学校途中からバスケットボールにのめりこんでましたが、高校は小学校6年から続けていたアルペンスキーをやろうと思って選んだんです。東京都立石神井高校っていう運動が盛んなところに行きました。ただ部活見学に行ってスキー部の部長にバスケ部の方が活気があっていいと思う、、と言われて。進学する段階で高校のバスケ部の事情を深く知らなかったのでちょっと後悔しましたね。ある意味沖縄ってコンパクトで各校の情報って結構あるけど東京はなかなか難しかったですね。沖縄ではメジャーだけどあの頃の東京ではマイナーな競技だったなという気がしますね。

仲村:肌身で感じた沖縄と東京のバスケットボールへの熱量の違いはありますか?

金谷:ありますね。東京って人口も沖縄の10倍いるけど熱量的には薄い感じはしますね。

仲村:高校生の時点で沖縄のバスケットボールにはふれているんですか?

金谷:めっちゃいい質問ですね。ルーツが半分沖縄なので毎年一回は必ず里帰りで来ていたし愛着もあるので高校野球では沖縄水産や沖縄尚学を応援していました。バスケットボールを始めた頃には月刊バスケット見てて「きたや高校って強いね」という風に言ってたらお母さんが「ちゃたんだよ」って教えてくれて。月バスで見た北谷は憧れましたねー。あの時代の能代とグッドゲームしてるんですよ、1997年、根間洋一さんの頃の能代カップの記事を月バスで見て前半同点、最終スコア100ー87の13点差、これはすごくないか?と思って。そのあとウィンターカップは東京であるので組み合わせ表見た時に順当に行けばエイトで北谷と能代が…みたいな事を中2で考えてました。もしかしたらここで北谷が勝っちゃうのが観られるかもしれない、と思って観に行って、すげえ試合だったんですよ、128-105。

仲村:能代の選手は?

金谷:田臥勇太が二年生の時。畑山陽一さんっていうすごいキャプテンがいてどちらかというボール運びは畑山さんに任せて田臥さんは走って得点するという形であの時は一番強かったですね。でもその頃北谷も全盛期で田臥さんたちが全日本ジュニアで入ってる時に安里先生はアシスタントコーチでポルトガルとか行ってるんですよ。そんな風に月バス情報ありきで穴が開くほど読んでいましたね。安里先生の家にDVDあるから観た方がいいよ、すごいから。あとは、小学校6年位で北中城が強い時があってユニフォームのパンツが長くなった時があるんです。それがすごいセンセーショナルで、テレビでも取り上げられてたんですよ、かっこいいと思ったのが記憶にあります。

仲村:この時の北中城は新里先生ですか?

金谷:そうです。

 

沖縄とバスケットボールの背景


仲村:ここからは卒論の話になるんですが気になっているのが、Bjリーグで優勝した時に伊佐ヘッドコーチがインタビューでよく『うちなーんちゅ』っていうワードを出されるんですよね、僕の仮説なんですけど、心のどこかで『沖縄vs本土』っていうのが沖縄県民の中におそらくあると思うんですよ。でもそれってバスケットボールだけではなくどの分野にもこのフォーマットは使われていて、野球でも内地を倒すぞっていう意識があって、この線引きはどこで起こっているのか?っていうのを自分なりに知りたいんですよ。

金谷:どこだと思う?

仲村:やっぱり考えつくのは政治的な対立とか沖縄の人の要望を向こうも簡単には受け入れづらかったり、政府の方針もあってギャップが感じられる、そこに起因するのかなって。

金谷:僕もそう思います。

仲村:それだけではないんだろうとは思ってますが、沖縄の指導者の深層心理には「本土には負けるな」っていうのがあるのでこの辺を検証していきたいんです。よく『沖縄独自のバスケットボール』と言いますがじゃあどういうバスケットボールなのか。金谷さんから見たらそれはどういう印象ですか?

金谷:いろいろありますが感覚的なもので言ったら『アウトナンバー』ですよね、速攻。沖縄バスケットボールの象徴だから誌名にしたのもあります。平面的にスピードで上回って得点を取っていくというバスケットボールですよね、今やそれは世界中のトレンドであると思うしルール自体も14秒/24秒というスピーディになっていったんですけど、その元をたどっていくと僕は辺土名高校で安里幸男先生がやろうとしたのが始まりだと思っていますね。

仲村:なぜ、平面的なバスケットボールになったのかというのは金谷さんから見てどうですか?

金谷:まず素材が全国から見て圧倒的に小さかった、辺土名高校は平均身長167㎝、全国では1m90㎝という選手が当たり前にいるチーム相手にどう戦っていくかというのを考えていくと当時としてはやっていなかったオールコートプレス、ボールを奪う地点をトップから狙ってゴールに近寄らせないっていうのを考え抜くとそうなったのかなっていう。今では当たり前になっているけど最初にそれを発見したのは1960年後半から70年代だったと思うんですよね、沖縄が日本でナンバー1になるため、そういうバスケットボールを積み重ねていたから、ウィンターカップでそれを観たときに感動したんですね。あの時、40何チームの中で明らかにちょっと違うバスケットボールをしていたと思います。

仲村:勝手な印象ですけど小さい選手が大きい選手を倒しに行くのは『挑戦』というスタンスのように感じられるんですけど、沖縄のバスケットは常に本土のバスケットに『挑戦』しているという印象は受けますか?

金谷:受けますね。受けますし、その分僕らが影響を受けたその時代を沖縄の人たちは実際過ごしてきているので、そういう所でのプライドはすごく感じますね。ただまあ2000年以降はバスケットは段々普及していって相対的には内地が伸びて、結局埋もれつつあり上には行けなくなったという。内地が強化したら私立も強化するし選手も持っていかれるし、留学生の台頭も2000年以降顕著にあったのでそれはあの時代を知る人達には歯がゆいかなっていうのはありますけど。それは野球でも起こってますよね、逆に沖縄が際立っていくには何が必要だろう?と考えるとメディアだ、と思ったんですよ。メディアも中央中心という構図があるんですが沖縄を中心としたメディア構造ができれば面白いし、バスケットでこれから沖縄が勝っていく地域になるには、バスケットボールのメディアの中心を沖縄にしちゃおうと思ったんですね。

仲村:アメリカ軍の存在が沖縄のバスケットボールに影響していると思いますか?

金谷:存分に影響されていると思いますね。そもそも沖縄はアメリカ世だったから。戦後バスケットボールが根付く段階ではアメリカだったんですよね。

仲村:具体的には?

金谷:戦前からバスケットボールはあって、70歳手前の方のお話聞いたらバスケットボールを持っていたら基地の中に通してくれて一緒にできたとか、そんな地域の普天間はその時代に強豪になってましたよね。中部中心に強かったという歴史から見てもアメリカのバスケットボールの影響を基地の存在から色濃く受けたんだなと思いますね。アメリカにおいてもバスケットボールって特別な存在で、アメリカ人が愛してるバスケットボールへの熱が沖縄の人たちに感染したんだと思いますよね。

仲村:具体的には確か放映があったとか聞きますが。

金谷:米軍基地向けの放送が中部エリアでも観られたとよく聞きます。その影響も濃いですね。

 

教えて、仲村さん。


金谷:僕も仲村さんに聞きたいことがあって逆質問してもいいですか?仲村さんはバスケットボールを始めたのはいつですか?

仲村:小学校四年生のころです。

金谷:中学校は?

仲村:中学は昭和薬科です。

金谷:そういえば昭和薬科のコーチしてたよね。

仲村:はい、してました。教えてた時にちょっとずつ強くなって、那覇南部で優勝した時にキングスアカデミーの存在を知って、清水レイさんや山城拓馬さんにお会いしています。コーチは7カ月続けてそのあとキングスアカデミーに入って指導をしていくうちにアメリカの試合を観つつ意識が変わっていきました。

シカゴ大のコーチ陣として試合に臨む仲村さん                 (写真は本人提供)

――vol.2へ続きます。次回いよいよアメリカでのお話。

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