2018-19シーズンから琉球ゴールデンキングスに6年間在籍し、マネージャー、ビデオコーディネーター、アシスタントコーチという要職を務めた幸地渉。2024-25シーズンはキングスを離れ、長崎ヴェルカのアシスタントコーチに就任した。
沖縄県八重瀬町出身の26歳の若きコーチは、新たに外国籍ヘッドコーチを招聘した長崎ヴェルカを次なる挑戦の場に選んだ。
バスケットボールとの出会いから学生時代を経てプロコーチになるまでの歩みと、輝かしいキングスでの6年間。そして、内に秘めるビジョンについて語ってもらった。
(取材日:2024年7月、取材・文:金谷康平)
東風平のバスケ一家で育ったバスケ少年
──幸地さんは八重瀬町の出身ということですが、幸地さんはバスケットを小学校で始められたんですよね?
実は小学校には部活が無かったんです。母方の兄弟が仲が良くて、家が近かったこともあり一緒にいることが多かったんです。そのいとこに神里和(現・青森ワッツ)選手がいます。神里和の家族はお兄ちゃんも含めてみんなバスケットをしてるんです。その影響で自然とバスケットをするようになりました。
──バスケ一家というか、物心ついたらバスケットをしていたんですね。
ここ(八重瀬町)は野球が盛んな地域なので、最初は野球をやりたかったんですけど、バスケットをしていた母から「(野球は)もう絶対ダメ、バスケしろ」と言われてバスケになりました(笑)。ちゃんと部活に入ったのは中学校からです。僕らの世代の東風平中学校はめちゃくちゃ弱かったです。
──高校は知念高校に進学しました。ほかにも選択肢があったと思いますが、知念高校に進学した理由は何ですか?
当時の顧問の先生に呼んでいただいたんです。選択肢があったと言えるほどではないですけど、「AとBという道があったとして、Aを選んだときに自分の先が見えてしまっているのならBを選べ」と親からはずっと言われていたんです。
──人(普通)とは違う道を選びなさいと?
そうですね。周りの友達が行くところに行ったら、自分が大体どうなるかなんて知れているし。今考えればごく近い地域での話ですが、あの頃は八重瀬町から知念高校に行く人はほとんど誰もいなかったので。
──高校での生活はどのようなものでしたか?
ずっとバスケットばかりしていました。楽しかったです。勉強は全然してないです。本当に勉強はしていなくて大変でした。(笑)
──高校卒業後は、九州産業大学に進学しバスケットを続けました。
大学に行くほどのお金は無いと親からは言われていたんです。なので高校卒業の段階で働こうと就職活動をして、郵便局とかを受けていたんです。けれども、九州産業大学から推薦のお話をいただくことができました。それであれば進学しようかと思いました。嘉陽宗紀先生(現・沖縄水産高校男子バスケ部監督、当時は小禄高校)からの勧めもあって。嘉陽先生とは国体の練習などでの関わりがあり、気にかけていただきました。
──九州産業大学には沖縄からバスケットボールをするために進学する子が多いですよね。
そうですね。僕らの世代が最初ですね、おそらく僕ともう1人、小禄高校出身の選手が入学してきて、彼と僕の2人が一緒です。翌年には上良潤起(小禄高校出身、現・鹿児島レブナイズ)らが入ってきてくれました。
怪我でプレーヤーからコーチ修行へ
──大学では4年間プレーをしたんですか?
2年程プレーして途中で怪我をして選手は続けられなくなり部活を辞めることにしたんです。けれども何とか大学には残りたい。教員免許を取得したくて頑張っていたので、大学を辞めるのはちょっとなぁと思いました。(笑)
そんな話をしていたら、マネージャーか学生コーチだったらチームに残れることになり、それだったら学生コーチがいいなと思い始めることになったのがきっかけです。
──どのような怪我だったんですか?
足首です。ずっと慢性的に怪我をしながらやっていたんです。それがある日痺れが止まらなくなってしまって。リハビリをして、今では普通に動けるんですが、(治るまでに)2年かかると当時の医者からは言われました。そこまで良い選手では無かったので、大学でバスケットは辞めるつもりだったんです。(大学までで)辞めざるを得ない中、2年間治療に専念するまでのモチベーションを保つのは難しい。だったら、もういいかなっていう感じだったんですけど。
──そのようなことがあって、学生コーチとしてのキャリアが始まったんですね。それまでは、現在就いてる「プロのカテゴリーでのコーチになる」という将来を考えたことはなかったんですね?
はい。その当時はなかったです。学生コーチとしての最初の1年間はただひたすらやるしかなかった。そのときの九州産業大学のヘッドコーチが吉村康夫さん(現・熊本ヴォルターズU18HC)という方なんです。吉村さんは森重貴裕さん(琉球ゴールデンキングスAC)の元々の上司というか、レノヴァ鹿児島(現・鹿児島レブナイズ)でアシスタントコーチをしていた方です。本当に色々なことを教えてくれました。パソコンで分析ソフトの使い方や、森重さんを紹介してくれたのも吉村さんでした。彼のリクルートで、僕ら沖縄組がたくさん九州産業大学に進学したんです。
──そのようにしてコーチとしてのキャリアを歩み始めた。大学4年時(2017-18シーズン)に京都ハンナリーズに入団されていますが、どのような経緯だったのでしょうか?
4年生最後の学生コーチとしての仕事であるインカレを終えて、それから京都ハンナリーズへ合流しました。2年生から3年生に上がるタイミングで学生コーチになったんですけど、1年間学生コーチをしたあとにヘッドコーチの吉村さんが辞めることになりました。そこから僕がヘッドコーチをすることになりました。
──つまり4年生の時には全ての指揮を執っていたんですね。 ものすごいキャリアです。
いや、本当に運がいいです。4年生の時に、九州リーグでギリギリのところに滑り込んでインカレに出場することができたんです。それを大学OBの方々が見てくれていて、京都ハンナリーズからお話をいただけることになりました。僕としてはプロでやれるんだったら挑戦したいと思いました。就活も終わって内定もいただいていたんです。内地でサラリーマン生活を始めようとしていたところでした。
──プロバスケットボールクラブで働けるチャンスが現れ、いただいていた内定を断ったんですね。
それこそ、親の教えであるAとBの話ですね。プロの世界なんて入れる時にしか入れない。いつでも入れるものじゃない。「はい」と2つ返事でした。
──京都にはインカレ後にシーズンの途中から加入して、そのシーズンで契約は満了となったんですか。
そうですね。ちょうどその時期に祖父母が亡くなったこともあり、オフシーズンは沖縄に戻っていました。そのタイミングで、当時すでにキングスのアシスタントコーチだった森重さんからキングスのマネージャーの枠があるとの連絡をいただいたんです。沖縄県民で、キングスで働けるチャンスというのはないじゃないですか。そしてキングスのヘッドコーチだった佐々宜央さんと国体道路沿いのスターバックスで面談しました。
縁とタイミングが繋いでくれたキングスへ
──緊張しましたか?初対面の佐々さんはどのような方でしたか?
めっちゃ緊張しました。めちゃくちゃ暑かったですが僕はちゃんとスーツを着ていきました。(笑)
緊張して全然覚えてないんですけど、佐々さんはこういう質問をしてくるんだ、みたいな。ちゃんと人を見て、その人のことを深く知れそうな質問をしてくるというか、すごく頭がいいという印象がありました。
──ものすごい縁とタイミングですね。キングスに在籍した6年間では、マネージャーからアシスタントビデオコーディネーター、ビデオコーディネーター、そして昨年2023-24シーズンはアシスタントコーチと段階的に役割が変わっていきました。この6年間をどのように受け止めてますか?
本当に、それこそ人に恵まれたということがあります。1年目には佐々さんの元で働かさせていただくことができた。 それがなかったら6年間もキングスにいることはできなかったと思います。
また、佐々さんだけでなく、木村達郎社長(当時)や、永安美智子さんなど当時のトレーナーの方々、そして森重さんも6年間ずっと一緒に仕事をさせていただいた。そのときどきのスタッフの皆さんにとても恵まれた。僕は右も左もわからないけど、最初に佐々さんが本当に細かく仕事の仕方を教えてくれました。それは今考えると、やっぱりすごくありがたい2年間でした。
──その細かく教えてくれたというのは、その時々のケースに応じてこうしてほしいっていう要求なんですか?
仕事は誰と働いても若い人であれば教わるものだと思うんですけど、 人としての在り方みたいなものをすごく学ばせていただきました。こういうのは良くなくて、こういうのは良いというものをすごくストレートに伝えてくれました。 それがもう本当にありがたかったです。
──最初に就いたのはマネージャーでしたが、具体的にはどういったチーム内での役割をこなしたのでしょうか?
それも、今考えたらすごかったと思うんですが、佐々さんは一気に仕事を渡さないというか、徐々に渡してくれました。本来なら僕がやるべき仕事を、浜中謙さん(当時キングスAC、現 名古屋ダイヤモンドドルフィンズAC)や森重さんといった他のスタッフがすごくサポートしてくれました。気づいたら全部の仕事ができるようになっていた、そんな感じなんです。段階を踏んで仕事を渡してくれていたんだなと。昨季は平田隆樹くん(現キングス アシスタントビデオコーディネーター)に僕が仕事を渡す立場だったので、先輩方のやり方を真似ていたのだと思います。
──2021-22シーズンからはマネージャーからアシスタントビデオコーディネーターに変わりました。 当然映像を扱うスキルが必要になってくると思いますが、大学生時代から分析ソフトを扱っていたのですか?
そうですね、学生コーチの頃から扱っていました。大学の時から森重さんとずっと連絡を取らせてもらっていて、そこで扱い方を教えてもらっていたソフトを使えることは運がよかったことです。当時森重さんは日本の映像分析の先駆者みたいな存在でした。
今でも簡単に買えるもんじゃないですが、学生コーチの僕だけでどうやって勝つのかという話を大学のチームで話し合ったときに「やっぱり分析って大事だよね」ということで、部員が1人5000円ずつ出し合って、分析のソフトを購入することになったんです。学生時代からそれを使うことができたことは、とても運がよかったです。今、その同じソフトをBリーグではほとんどのクラブが使ってるんです。
──そのような分析ソフトにいち早く学生時代から触れていたんですね。その結果、プロクラブから声がかかったんでしょうね。キングスでの3年目には佐々さんから藤田弘輝さんにヘッドコーチが引き継がれました。そしてコロナが来たりと。このシーズンも激動の1年でした。
それこそ本当何があるかわからない、その人といつ一緒に働けなくなるかは本当にわからないなと改めて感じました。特にプロの世界では。だからこそ、その時にちゃんと会話をしないといけないし、学びたいものをためらわずに聞いたりしないと後悔が残る、そういう仕事だなと感じました。
──その後はコロナがありつつも、沖縄アリーナが完成し開業を迎えました。沖縄バスケ界にとってものすごい時期だったと思いますが、どのように感じていましたか。
いや、木村達郎社長はすごいなと。それは僕の中ではやっぱりありますね。木村さんはやっぱりすごかったなというのは、 仕事を一緒にさせてもらった時に、「ここまで(細部に)こだわるんだ」というようなことを僕に言ってくれたりして、 それまでに彼のような視点で物事を捉えたことが無かった。とても勉強になりました。
──幸地さんが初めてキングスを観たのはいつなんですか?
桶谷さんのbjリーグ1年目(2008-09シーズン)で、ちょうどアンソニー・マクヘンリーが加入して、一気に強くなった時期です。その前のシーズンはものすごく負けて。僕はBS放送を録画してNBAをよく見ていたんです。だから、(日本のバスケを)ちょっと馬鹿にしてるフシがあったんです。でも新聞などでキングスがたくさん勝っているのを見て、地元の八重瀬町東風平から歩いて那覇市民体育館まで行きました。それこそ神里和と2人で、2階席の1番上から試合を見たんです。
──東風平から歩いて行くんすね。かなりの距離ですが。
僕の親は教員で厳しかったんです。簡単にはおこづかいももらえないし、車で送ってもくれなかったので、そのときは子どもだけでチケットを買って歩いて行った。それが最初で最後です。チケットは1000円くらいだったと思うんですけど、1000円なんて簡単に貯められるもんじゃない。
──初めて観たキングスはやっぱり衝撃でしたよね。私の初めては2007年ですが、那覇マラソンを走りに沖縄に来て、その前日にキングスのホームゲームがあることを知り那覇市民体育館に行きました。試合には負けましたが、本当に最高でした。那覇マラソンは走らずに、次の日もキングスの試合を観に行きたいって思うほどでした。
キングスの真っ白なウォームアップジャージが輝いて見えましたよね。かっこよかったです。小学生のときに澤岻直人さんに肩車してもらって、ダンクさせてもらいました。それこそ僕は身長がめっちゃ小さかったんで。
──何ですかそれは?バスケットボールクリニックですか?
はい、クリニックでキングスが僕の小学校まで来てくれて、それも今でも忘れないです。それがあって、試合を観に行きたいねという話になったんだと思います。
──クリニックがきっかけとなり、本当に試合を観に行くことになったんですね。とてもいい話を聞きました。ありがとうございます。
自分自身の成長のために次のステージへ
──幸地さんがキングスに所属した6年間で沖縄アリーナが完成して、決勝にも何度も進出しました。そして念願のBリーグチャンピオンを経験することになりました。2023-24シーズンは連覇とはならなかったけども、チャンピオンシップゲームを何回も経験しました。ご自身ではこのことをどのように受け止めていますか。
自分がどうとかじゃなくて、 それこそ本当にありがたかったなと思っています。でも、2022-23シーズンに優勝したんですけど、なんと言うか、別に自分は優勝してないという気持ちが湧いてきて。というのは、桶谷さんや森重さん、あとは選手たちに自分は乗っかっているだけという気持ちがすごくありました。
そして、将来はヘッドコーチをしたい。それを考えた時に、 森重さんも元々代表でアナリストしていたり、桶谷さんはアメリカの大学に行っていた。藤田さん、炎さんもアメリカに留学していたり、みんな海外での経験が指導者のルーツになっています。
そういう人たちを見ていると、自分自身がこのまま沖縄にいてはダメだ。もし本当に自分が夢を追いかけたいのであれば。だから、優勝を経験させてもらったんですけど、それがきっかけでなんか自分はまだまだだなと。別に自分が優勝したわけでもないし、強いチームにいるからといって、自分のような若いスタッフがすごいのかと言われると決してそうではないなと思います。
いつか能力で振るいにかけられる時に戦える力がないと、沖縄出身だからずっとキングスに居続けられるみたいにはならないですから。自分自身はまだまだだなと思っています。ちゃんと自分の名前で勝負しようと思ったことがきっかけですね。
──やはり現状に満足しちゃいけないということでキングスの退団を決断したんですね。そして新天地は長崎ヴェルカになりました。
ちゃんとシーズンが終わってキングスを退団してから、次のチームのことは考えようと決めていました。実は海外に出て無給でもいいから、リバウンドでもなんでもするから学んでこようと思っていたんです。ちょうど僕がすごく追いかけてたモーディ・マオールコーチが長崎のヘッドコーチに就任しました。そのタイミングでちょうど長崎からのお話もいただいたんです。
──またまたものすごいご縁とタイミングですね。なんですか、毎日トイレ掃除とかしているんですか。(笑)
いや、ほんとに。親にも運がいいねってよく言われます。運がいいと思うようにしています。今日は運が良かったなと、良かったことを考えるようにはしています。ちょうど、一昨年優勝したシーズンに体調を崩して休んだ時に、気持ちの作り方じゃないですけど。
──学ぶきっかけと少しの時間があったんですね。
優勝後のオフシーズンにそれまでの人生を振り返った時に、運が良かったということを改めて感じました。
森岡毅さんの「苦しかった時の話をしようか」という本を読んだのが大きなきっかけになりプラスな考え方を体得しました。
──今後はその海外での経験も含めて、コーチとしてのレベルアップすることが今のテーマになっているのでしょうか。希望も含めて何か具体的な目標はありますか?
そうですね。長崎でもアシスタントコーチなので、僕の采配がどうとかではないですけど、佐々さんや藤田さん、桶谷さんら、彼らの経歴の中には『海外』が入ってるんです。それを手に入れるわけじゃないですけど、海外での経験は絶対にしないといけないというのが1番自分の中では大きいです。あとはやはりヘッドコーチになりたいです。それはBリーグでです。
でも1番近い目標は、 海外でお金をもらってコーチすることです。そのためにまずは長崎で外国人のコーチと働く。そのような経験は初めてのことなので。日本人のアシスタントコーチは僕しかいないので、まずちゃんと自分が、違う言語で力を出せれば。その先に頑張って海外で働けたらなと思っています。