15年のプロキャリアを終えて次なる挑戦へ 上江田勇樹さんインタビュー [2025.09]

沖縄県那覇市出身でプロバスケットボール選手として長く活躍した上江田勇樹さんが、2024-25シーズン終了後に15年のプロキャリアに終止符を打つことを決断した。

2024−25 新潟でプレーした後に現役生活を終えた上江田勇樹さん

1987年生まれ 那覇市出身の上江田勇樹さんは、193センチの左利きSG/SF。2010年にJBLの三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(現・名古屋D)に入団。2013年に千葉ジェッツに移籍し4シーズンに渡りプレーして、2017年には天皇杯優勝を経験した。

2017-18には富山グラウジーズでB1残留に貢献し、2018-19には新潟アルビレックスBBでクラブ初の地区優勝に主力として貢献した。2020-21に移籍した群馬では、同クラブ史上初のB2制覇とB1昇格を果たすなど、輝かしい実績を積み上げた。直近の3シーズンは、八王子ビートレインズで2シーズン、さらに新潟アルビレックスBBで1シーズン、B3に戦いの場を移した。193cmという恵まれたサイズと高い運動能力を活かし、キャリアの序盤から中盤にかけては常に主力として活躍した。キャリア終盤はベテランとしての経験を活かし、高確率のスリーポイントや的確な状況判断でプレータイムを伸ばした。2023-24シーズンに在籍2年目の八王子では、キャプテンとしてチームをまとめた。プロ通算出場は600試合以上を誇る。

上江田勇樹 プロ出場試合数
B1:217試合、B2:59試合、B3:137試合。NBL(2013-14、2014-15、2015-16)千葉145試合。※JBLの3シーズンの出場試合数は不明(2010-11、2011-12、2012-13、各年度42試合)

近年の沖縄県出身プロバスケットボール選手の先駆者的存在だった上江田さんに、バスケットボールとの出会いからプロ選手としての思い出、引退のきっかけなどを聞いた。

目次

高いレベルでのプレーを目指していた学生時代

バスケットボールを始めたきっかけと、興南高校への進学の決め手は?

生まれ育ったのは那覇市小禄で、宇栄原小学校で友だちに誘われて小学校4年生でバスケットボールをはじめました。身長は小学校6年生の頃には165cmくらいあって、その後もだいぶ伸びました。父も180cmくらいあったんです。父は高校の途中までバスケットをやっていたようです。中学生当時は、当時県内で強豪だった北中城高校や北谷高校の試合をよく見ていました。

小禄中学校時代はジュニアオールスターにも選ばれて、そのジュニアオールスターメンバーの多くが中部工業高校(現・美来工科高校)に進学しましたが、僕は興南高校に進学しました。

当時の僕は、もし大学でもバスケットボールをプレーするなら、レベルの高い関東の大学に進学したいという気持ちがありました。興南高校の監督である井上公男先生が日本大学出身で、呉屋貴教(元富山グラウジーズ等)さんや城間修平(元高松ファイブアローズ等)さんといった沖縄出身で憧れていた先輩たちが当時日本大学でプレーしていたので、興南高校に決めました。

興南高校を卒業後、関東の強豪である日本大学に進学してどのようなことを感じましたか。また、プロ選手になることは最初から意識していましたか。

やっぱりレベルが高かったです。プレー強度も全然違いましたので最初は大変でした。幸いにも1年生の時からベンチに入れていただき、試合にも出場しました。そして2年生からはずっとスタメンで起用していただいたので、とてもありがたかったです。

プロ選手になろうとは最初のうちは全然考えていなくて、プロを意識したのは本当に大学最後の4年生の頃でした。そのころは琉球ゴールデンキングスが創設2年目か3年目くらいの頃でした。(就職を考える時期に)いろいろな可能性を考えたんです。高校時代に沖縄県で優勝し、その後、年代別の日本代表に選ばれました。大学時代にはアディダスキャンプに参加し、海外でバスケットをする機会を得て、中国や米アトランタに行かせていただきました。海外に挑戦する中で、ドワイト・ハワードやジョアキム・ノアといったNBA選手と同じコートに立つことができた経験は、僕にとって大きな財産となりました。また、大学4年時にはリーグ戦優勝やインカレ制覇で日本一を達成し、個人としてもスリーポイント王を獲得することができました。このような経験から、プロになるという選択肢も考えられるのではないかと意識するようになりました。

様々なヘッドコーチのバスケを体現し続けた15年のプロ生活

大学卒業後は、bjリーグかJBLの2つの道の中から、JBL三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(現名古屋D)を選びました。

その当時は、bjリーグとJBLという2つのリーグに分かれていたので、いくつか声をかけていただいていた中から、JBLの三菱ダイヤモンドドルフィンズ(2010-13)に決めました。新人王は逃しましたが、ルーキーシーズンからかなりの試合に使っていただきました。

三菱で3シーズンを過ごした後、千葉に移籍(2013-17)して4シーズンプレーしました。富樫勇樹選手と一緒にプレーし、天皇杯優勝を経験することができました。その後、富山で1シーズン(2017-18)を過ごし、新潟で2シーズン(2018-20)を過ごしました。新潟では中地区優勝(2018-19)を経験することができました。

2017年天皇杯を優勝した千葉ジェッツ在籍時代 (写真提供:千葉ジェッツふなばし)
B1残留に貢献した富山グラウジーズ在籍時代 (写真提供:富山グラウジーズ)

その後の群馬(2020‐22)に移籍し、千葉で一緒にプレーしたマイケル・パーカー選手と再びプレーすることになりました。群馬では50勝5敗という成績でB2優勝し、B1に昇格することができました。バスケットボール選手として、いろいろなチームで試合に使っていただき、優勝を経験することができたのは僕にとって大きな財産になっています。

恩師である興南高校の井上先生が大学時代に4冠、いすゞ自動車でJBL連覇を経験しているのですが、悔いが残るとすれば『連覇』という形で、井上先生の記録を超えることができなかったことです。優勝した次の年に追われる側の立場になるので『連覇』はすごく難しかったです。それでも、とてもいい経験ができたと思っています。

プロとして15シーズンプレーしたことについてはどのように考えていますか。また、長くコートに立ち続けることができた理由はなんでしょうか?

プロとして15年間プレーすることができたことはすごく良かったです。新しい選手がどんどん台頭してきますし、上の世代や同世代はどんどんいなくなる中で、ルールや技術的にもアジャストしなければいけないことは大変でした。長くキャリアを続けることができた要因は、大きなケガがなかったということが大きいと思います。幸いなことに長期離脱や手術するようなこともなかったので。自分自身での体調管理やコンディション作りなど、常に体の状態を理解できていたことが長く現役生活を続けることができた理由だと思っています。

若い時には回復が早いのですが、年齢を重ねていくと回復が遅くなってくることに対して、体が欲しているものを感じ取ることができるようになりました。栄養についても基本的にはバランスよく摂っていました。

いろいろなヘッドコーチのもとでプレーされたと思いますが、プレータイムを勝ち取れた要因はなんでしょうか?

毎年ヘッドコーチが代わるたびに、使う言葉も文化も違うので大変ではあったんですが、まず最初にヘッドコーチが何をやりたいかを理解することが大切でした。そして、自分がどのような選手なのかを理解してもらうこと。それらのことに対してすぐにアジャストできたのは、プレータイムが伸びた要因にはなっていると思います。

バスケット人生を振り返ると、カテゴリーが上がるなかでの苦労は常にありますが、僕の場合は中学から高校に上がるときが一番苦労した印象があります。高校3年間でみっちりと基礎を叩き込まれたので、世代別の日本代表に参加したときや大学以降のカテゴリーが上がったときにアジャストできたと思います。外国籍ヘッドコーチは基礎をとても大切にしています。基礎ができているかいないかでアジャストできるかできないか、得られるプレータイムも変わってくると思います。

大学までは日本人とのマッチアップが多かったが、プロでは外国籍選手とのマッチアップが増えたと思いますが、例えばドリブルクリエイトが減ったりするなどのプレーの内容は変わりましたか?

確かにプロになってからはディフェンスがメインになりました。サイズがあって動けるということが僕の強みだったので。最近ではフォワードの外国籍選手が増えてきていますが、そういった外国籍選手とマッチアップする機会がどんどん増えていきました。大学まではオフェンスの役割が多かったですが、プロに入ってチームとしてのディフェンスを遂行する役割がメインになっていきました。もちろんシュート確率を上げることは常に意識していました。

外国籍選手とマッチアップする上江田勇樹さん (2024-25 新潟時代)

いろいろなクラブに所属されましたが、振り返ってみて一番大変だったことは?また、沖縄を離れての選手生活はいかがでしたか?

個人的にもっとも大変だったのはB3の八王子に在籍していた頃です。B3ではB1やB2とはやっているバスケットが全然違いました。キャプテンを任せてもらったこともあり、一緒にプレーしたことが無い選手も多い中で、ヘッドコーチがやりたいバスケに沿いながら、上のカテゴリーで戦うためにはどうすべきかをチームメイトへ伝えていく難しさとやりがいがありました。

沖縄のバスケを全国に通用させる指導者になりたい

この度引退を決めた経緯について教えてください。

昨シーズン、ルーキーの選手や後輩のチームメイトが分からないことを教えているときに、それまでは彼らに競り勝ってプレータイムを勝ち取るという感覚だったのですが、自分自身が教えている側の感覚になっていたんです。つまり教えることに情熱が向いてきていたんです。

プレーするために身体を動かすのはメンタリティーが大きいもので、それを意識したときからは体が動いているようで、思いのほか動けていないなと些細な変化を感じたんです。それはつまり選手としてプレーするというより、指導をすることに情熱が向いていることに気がついたということです。「まだまだ全然動けるね」と言ってくれる人もいますが、自分自身が(指導者になることを)納得した部分が大きかったんです。引退するタイミングを自分で決められるのは、とても幸せなバスケットボール選手キャリアだったかなと思っています。

選手としてのキャリアを振り返ってみていかがですか

バスケットボールを通して経験出来たことがたくさんあったと思います。人との繋がりができたことも、優勝したこともそうですが、常に皆さんがサポートしてくれて応援してもらえるということはとてもありがたいことでした。そのような経験は自分自身にとって財産だと思っています。

今後の上江田さんの展望を教えてください。

もっと沖縄のバスケットボールが全国で通用するような貢献がしたいです。現在現役で頑張っている沖縄出身のプロ選手たちがいますが、もっともっと多くのプロ選手が出てきてほしいというのが正直な思いです。岸本隆一や山内盛久、並里成などが頑張っていますが、もっと下の世代も出てきてほしいです。今沖縄のバスケットボールは盛り上がっていると思いますが、欲を言えばキングスが沖縄出身の選手たちだけで盛り上がれるくらいのバスケットボール王国を作っていきたいです。

ここ数年、沖縄出身のプロ選手は内地の強豪高校出身の場合が多いので、それは悪いわけではないのですが、少し寂しい気持ちにもなっていました。沖縄でバスケットボールを学び、沖縄独特の感覚や強み、沖縄出身だからこそできるバスケットがあると思うので、そういったものを復活させられたらいいなと考えています。具体的に決まってはいませんが、中学高校の体育の教員免許も持っているので、バスケットボールの指導者として育成に携わっていけたらなと思います。

上江田勇樹 プロ経歴
2010-2013 三菱電機ダイヤモンドドルフィンズ(JBL)
2013-17 千葉ジェッツ(NBL・B1)
2017-18 富山グラウジーズ(B1)
2018-20 アルビレックス新潟BB(B1)
2020-22 群馬(B2・B1)
2022-24 八王子ビートレインズ(B3)  2年目にキャプテン就任
2024-25 アルビレックス新潟BB(B3)

(取材・文:金谷康平)

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この記事を書いた人

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