【特集後編】ともに戦った仲間が語る アンソニー・マクヘンリーのすごさ 

2023年7月19日、信州ブレイブウォリアーズは、2022−23シーズンをもってアンソニー・マクヘンリー選手が引退することを発表しました。

以下記事は、2021-22シーズン 4月20日(水)に予定されていた『琉球ゴールデンキングス vs 信州ブレイブウォリアーズ』を前に、琉球ゴールデンキングス時代のアンソニー・マクヘンリー選手の活躍を紹介するために、2022年4月5日に公開した記事です。この試合はアンソニー・マクヘンリー選手が沖縄アリーナへ初凱旋する記念すべき試合でしたが、新型コロナウイルスの影響により、残念ながら試合中止となり、マックの沖縄アリーナ初凱旋は実現しませんでした。

 

アンソニー・マクヘンリー選手のbjリーグ、Bリーグにおける功績をより多くの方々に知っていただきたく、一部追記して本記事を再公開いたします。

 


 

アンソニー・マクヘンリーは2008年に琉球ゴールデンキングスに加わり9シーズンを過ごした。その後信州にわたり5シーズンを重ねている。日本での14シーズンの間でともに戦い、現在琉球でも重要な仕事をこなしている2人にアンソニー・マクヘンリーについての印象やエピソードを語ってもらった。

一人目は2009年から2013年までの4シーズン、キャプテンとしてキングスでプレーをした与那嶺翼氏。現在は琉球ゴールデンキングスU18のヘッドコーチや解説者など活躍の幅を広げている。

もう一人は、2019年より信州ブレイブウォリアーズでアシスタントコーチを務め、マクヘンリーと2シーズンを共にした栗野譲氏。現在はアシスタントコーチとして桶谷大の右腕として、キングスの躍進を支えている。

 

マクヘンリー特集 前編はこちら

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目次

与那嶺翼氏(現 琉球ゴールデンキングス U18ヘッドコーチ)インタビュー

一言でいえば、『スーパー配慮の人』だった

2009年から4季にわたり主将を務めた与那嶺翼氏  写真提供:琉球ゴールデンキングス

 

─ 与那嶺翼さんはマクヘンリー選手と同級生になりますが、特別な親しみはありましたか?

マクヘンリー選手は1983年4月生まれで、私は1983年5月なので、近い時期に生まれて来たんだなと感じています。彼はジョージア工科大学でいろいろな経験や実績を積んでいる選手であるということを頭に入れて、僕はキングスに入団したんですけど、彼を一言で表現すると『スーパー配慮の漢』ですね。彼が来てからキングスの歴史が始まったと言っても過言ではないと思いますし、今でも信州でそのカルチャーを作ってどんどんチームを強くしているというところは、やはり彼の『スーパー配慮』というところがあると思います。

あまり言葉は交わしたりはしないんですけど、僕がキングス時代にマクヘンリー選手とのアリウープをよく決めていたんですが、言葉では言い合ったりしないんですけども、なんか通ずるものがあって、感覚が似ているなという印象がありました。僕が出すパスを彼は受け、それを決める。彼がどこに走るっていうのも僕の頭の中にはあって、意思疎通は取れていたのかな、同い年だからできる部分はあったりしたのかなと思います。

日本人選手が食事をしている中で、唯一外国籍選手が1人いるというような状況なので、そういうことに厭わずチャレンジをする姿は、見習いたいと思いながらも、簡単なことじゃないと思いました。また、日本語教室にも通っていたという話も聞いたことがあるんです。

コミュニケーションをとる前段階の準備として、彼が日本の文化を受け入れようという姿勢の表れなのかと思いますね。日本の細部へのこだわりであるとか、沖縄の人たちの人懐っこさだったり、気候のあたたかさだったり、そういったところは彼の住んでいた故郷(アラバマ州)に近いというような話をしたこともあるんです。

 

─ 与那嶺翼さんはキングスが初優勝した直後にキングスに加入されています。大分在籍時に初めて対戦したときに、マクヘンリー選手に抱いた印象は?

今でこそ2メートルでアウトサイドでプレーする選手はゴロゴロいますけど。その当時はなかなか日本にはいない存在でした。マクヘンリー選手は身長が2メートルあって、ボールも運べて、ポイントガードでもなんでもできるオールラウンドプレーヤーでしたから、周りの選手はプレーしやすいだろうなという印象を受けていました。

先ほどスーパー配慮という話をさせてもらったんですけど、プレー面でいうと特にディフェンスでのヘルプディフェンスのポジショニングだったり、駆け引きだったり、そういったところは彼の最大の特徴なのかなと感じています。

彼のヘルプポジションがあるからこそ、今でもキングスはアグレッシブなディフェンスがチームのカルチャーとしてあるのです。後ろにはマクヘンリーやジェフ・ニュートンがいるという信頼感があったからこそ、ボールプレッシャーをかけられたので、彼らには本当に助けられました。

 

『周りの選手の能力を引き出せる』のがグレートプレイヤー

オフェンス面では、グッドプレーヤーとグレートプレイヤーがいると僕は感じているんですけど、グッドプレイヤーは、もちろん自分一人で打開する選手や得点をとる選手などがいます。グレートプレイヤーは、周りの選手を上手くする。そういう選手がグレートプレイヤーだと僕は認識しているんです。マクヘンリー選手とジェフ・ニュートン選手はまさにグレートプレイヤーに値するんです。周りの選手が活き活きし、その選手の特徴や強みを最大限に引き出すことができるのです。

通常の外国籍選手であれば得点に固執するようなシチュエーションでも、マクヘンリー選手は周りにボールを供給して、シュートが入るか入らないかに関わらず「Good Shoot」 と言ってくれるので、そこも配慮ですよね。「自分がシュートを打っても良いんだ」という感覚にもなり、選手たちの心理的な安心により、シュートが決まりだすのかなと彼らと一緒にプレーして感じさせられました。

 

─ 与那嶺さんがボールマンにプレッシャーをかけるときに、背後から指示や声かけがあったのですか?

ただ声を出すというわけでなく、トークラウドと言われるんですけど、練習中からとにかく大きい声を常に出し続けていました。喋れる選手は超一流だなと彼らの姿を見て改めて感じさせられました。

 

─ 与那嶺さんは昔から常に声を出しているイメージが強いんですけど、キングスでのマクヘンリー選手はもっと声を出していたんですか?

マクヘンリー選手はもっと出していました。なので僕は足りないという感覚に陥りましたし、だからこそ自分もそれを参考にしようというマインドにもなりました。「やってみせ、いってきかせて、させてみて・・・」という言葉がある通り、マクヘンリー選手はその通りやってくれて、周りを巻き込む力もあるなという印象を受けました。自分が選手時代13年間に染み込ませてもらった、一つのスキルです。声を出すことも一つのスキルだと思うので、そのスキルをマクヘンリー選手から習得できた4年間でした。

 

─ 岩手ビッグブルズ、金沢武士団でのプレーを見て、与那嶺さんは常に声を出している印象を受けていました。その声出しはマクヘンリー選手とのプレーした4年間の影響があったんですね。

そうですね。それは大きかったですね。僕の兄弟は、高校や大学時代までは、僕がそんなに声を出すイメージは無かったらしくて。プロになってからは人が変わったかのように表現力が豊かになっていると伝えられたときには、僕にとっては嬉しいことでもありました。

それは間違いなくマクヘンリー選手たちがいたからこそ、そういうマインドに変わってそれを体現することが出来たと思います。なので、後輩たちにもそういう伝統を引き継いで継承していくという役割を僕が担っていたと思います。それを考えると現在岸本選手や並里選手の二人がキングスを完全に牽引していると思うんですけど、そういう姿を見るとこれまでのキングスのカルチャーが思い起こされて嬉しい想いにもなりますし、誇らしく思います。

岸本や並里がキングスのカルチャーを継承している

勝者のメンタリティで『B』の頂に挑む

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この記事を書いた人

1983年11月5日生。東京都豊島区出身。那覇市在住。母が那覇市出身で2015年に沖縄移住。沖縄バスケットボール情報誌OUTNUMBERゼネラルマネージャー。
中学2年生のウインターカップ(1997年)で、当時圧倒的な強さを誇っていた能代工業を追い詰める北谷高校の勇敢な戦いぶりに衝撃を受け、以来沖縄のバスケットボールを追いかけるようになる。野球やサッカーに並ぶように、バスケットボールのジャーナリズムを発展させていくことを目指し、2018年10月にOUTNUMBERを創刊した。
2020年にはOUTNUMBER WEB、OUTNUMBER YOUTUBEを運用開始した。

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