バスケットボール王国・沖縄の歴史に、また新たな1ページが刻まれようとしている。Bリーグ史上初となるドラフト制度の導入だ。第1回Bリーグドラフトは、2026年1月29日に東京ドームシティホール Kanadevia Hallで開催される。
全国の才能ある若者たちがプロへの道を切り拓くためにその名を連ねる中、ここ沖縄からも有望な選手が歴史的なドラフトにエントリーした。OUTNUMBERはその中でも今泉 太陽、崎濱 秀真、下地 秀一郎、上間 玖龍の4選手にインタビューを行った。
彼らは沖縄でバスケを始め、高いレベルを求めて沖縄県外へ旅立ち、怪我や挫折といった苦難を乗り越え、プロという夢の舞台を目指している。彼らへの独占インタビューを基に、その知られざる挑戦と成長、そして決意を深く掘り下げていく。
今泉 太陽 (日本経済大学)

「関東には負けたくない」強い決意でインカレ3位に導いたエース
今泉 太陽 Taiyo Imaizumi プロフィール
所属:日本経済大学
出身地:神奈川県
出身校:北谷町立北玉小学校→北谷町立桑江中学校→沖縄市立コザ中学校→福岡第一高校→日本経済大学
生年月日:2003年8月12日(22歳)
ポジション:SG
身長:181cm 体重:74kg
— 一度は実業団でのプレーを見据えて就職を考えていたそうですが、Bリーグのドラフトエントリーを決断した経緯は?
今泉:大学4年生に上がるまでは、プロの道を一度断念し、バスケットボールを続けられる環境のある実業団でプレーしようと考え、就職活動もしていました。しかし、最後のインカレ(第77回全日本大学バスケットボール選手権大会)でチームが3位に入り、自身も大会ベスト5に選出されました。「ここまで来たならプロに挑戦したい」という思いが強まり、小さい頃からの夢だったプロバスケットボール選手になるためのチャンスが目の前にあると感じ、エントリーを決意しました。
— 小学生の頃、初めてプロバスケットボール(琉球ゴールデンキングス)の試合を観戦した時の記憶はありますか?
今泉:バスケを始めたばかりの小学3年生の頃、母に連れて行ってもらって観戦しました。 場所は宜野湾コンベンションセンターで、bjリーグ時代の試合でした。対戦相手は秋田ノーザンハピネッツで、当時デビューして間もない若手の富樫勇樹選手(現:千葉ジェッツ)がおり、「富樫が来る」と話題になっていた記憶はありますが、試合中の富樫選手の記憶は全くありません。むしろ、キングスのアンソニー・マクヘンリー選手(現:琉球ゴールデンキングスAC)が中心となってプレーしていたことを覚えています。
— バスケットボールを始めたきっかけと、小・中学校時代のバスケ生活について
今泉: 小学3年生の時、当時の担任の先生であった比嘉さやか先生に誘われたことがきっかけです。体育の授業などで運動神経が良かったのを見て声をかけてくれたのだと思います。 当時は北谷町立北玉小学校に通っており、男子ミニバスのコーチは松田武志さんという消防士の方でした。仕事の空いた時間を使って自分たちを指導してくれていました。
— 中学校は最初から強豪のコザ中学校に通っていたのですか?
今泉:いいえ、最初は北谷町にある桑江中学校に入学しました。しかし、1年生の終わり頃に隣市の沖縄市立コザ中学校へ転校しました。
— なぜ転校を決意したのですか?また、その時の家族の反応はどうでしたか?
今泉:当時、コザ中学校には有名な松島良和先生(故人:松島良豪 現 国士舘大学男子バスケ部監督の父)が指導者としていらっしゃることや、ジュニアさん(ジャン・ローレンス・ハーパージュニア:現 サンロッカーズ渋谷)など同世代の上手いプレイヤーが揃っていることを知っていました。「ここに環境を変えれば自分も上手くなれる」と思い、お母さんに「そこでやりたい」と志願しました。 お母さんは「あなたがやりたい道なら応援するよ」と言ってくれる人でした。転校を伝えた時も、理由を細かく聞くのではなく、どうすれば実現できるかを一緒に考えてくれました。 結果として、お母さんが家を探して、家族全員で引っ越しをしてくれました。その際、妹もコザ小学校へ転校させることになり、家族に迷惑をかけながらもバスケット中心の生活をさせてもらいました。
— 転校後、すぐに試合に出ることはできましたか?
今泉: いいえ、すぐには出られませんでした。1つ上の学年に素晴らしい先輩たちが多くいたため、転校した2年生の頃は全く試合には出られませんでした。 自分たちの代になった3年生で、ようやくスタメンとして試合に出ることができました。
— 同じくドラフトにエントリーしている崎濱秀真選手とは、コザ中学校当時どのような関係でしたか?
今泉: 崎濱選手も僕と同じように中学の途中で転校してきました。自分たちの代で途中から転校してきたのは、崎濱選手と僕の2人だけだったため、「同じ転校生」として境遇が似ており、当時から仲が良かったです。チームでも僕ら2人が主力としてプレーしていました。
— 中学時代の主な戦績や、印象に残っている大会について
今泉: 中頭地区や県大会では、当時ライバルだった豊見城中学校に負けてしまい、2位という結果が多かったです。3年生時には、沖縄県大会(第60回沖縄県中学校バスケットボール競技大会)で豊見城中に敗れて準優勝。九州大会(第48回九州中学校バスケットボール競技大会)では、組み合わせの運も良く、決勝まで進むことができました。しかし、決勝では強豪の西福岡中学校に敗れ、準優勝でした。 九州2位として出場した全国大会(第48回全国中学校バスケットボール大会)ベスト16という成績を残しました。
— 中学生当時対戦した相手で、今でも繋がりがある選手はいますか?
今泉: 九州大会の決勝で対戦した西福岡中学校のメンバーとは縁があります。例えば、早田流星選手(日本体育大学)や鷹野祐磨選手(福岡大学)山外幸樹選手とは、後に福岡第一高校でチームメイトになりました。岩下准平選手(筑波大学)は福岡大学附属大濠高校に進学するなど、当時戦った選手たちとはその後のキャリアでも繋がりがあります。
— 福岡第一高校時代の経験は?
今泉:バスケットボール生活の中で「一番きつかった3年間」でした。入学当初からレベルの高さに圧倒され、1年生の時はほぼBチームでした。2年生の冬に前十字靭帯を断裂し、約1年間のリハビリを余儀なくされました。3年生で一度Aチームに復帰しましたが、最上級生としての振る舞いや意地をコートで表現できず、自分の未熟さから井手口孝先生の期待に応えられなかったため、最後の半年間は再びBチームに落ち、スタンドから応援することになりました。しかし、この厳しい環境で1番ポジションまでこなす経験をしたことが、現在のプレーの幅につながっています。
— 日本経済大学での4年間を振り返って、どのような成長がありましたか?
今泉:技術面はもちろんですが、4年間を通して一番成長できたと感じているのは「精神的な面」です。入学当初は部員が50名ほどいる大所帯でしたが、1年生の9月〜10月頃から試合に使ってもらえるようになりました。 2年生からはスタメンとして出場しました。最初はディフェンスを買われての起用でしたが、学年が上がるにつれて(3〜4年生)、リーダーシップや得点力、チームを引っ張る役割など、求められる役割が増えていきました。
— 大学時代、チームとしての方針が変わるようなターニングポイントはありましたか?
今泉:大きな転機となったのは、僕が1年生の時のインカレ(全日本大学バスケットボール選手権大会)で明治大学と対戦したことでした。 前半までは五分五分で戦えていましたが、後半(第3・4クォーター)に自分たちの脆さが出てしまい、最終的に15点差ほどつけられて敗北しました。この敗戦はチームの意識を大きく変えるきっかけとなり、「関東のチームに勝ち切れるチームを作ろう」という明確な目標ができました。 それ以降の2年生からは、ディフェンスやリバウンド、泥臭いプレーを練習から徹底して意識して取り組むようになり、チームの意識が変わりました。
— 九州(地方)の大学として、関東の大学と戦うことに対してどのような思いや葛藤がありましたか?
今泉:地方勢として一番大変だと感じるのは、「関東のチームと良い勝負をしても意味がない(評価されない)」という現実です。 例えば一昨年、優勝した日本大学とトーナメントの1回戦で当たり、最後の最後まで接戦を演じて6点差で敗れました。僕らは毎年成長を続け、関東勢と差がない試合はできていたものの、やはり「勝たないとメディアに注目してもらえない」という厳しさがありました。 今回の最後のインカレで接戦を勝ち切り、3位という結果を残せたことで、ようやくメディアや多くの方々に注目してもらうことができました。

— 初めてのドラフトエントリーの手続きで苦労したことはありますか?
今泉:インカレ終了後に急遽エントリーを決めたため、準備がギリギリでした(Bドラフト申請期限は12月19日、インカレ最終日は12月14日)。当初、理事長や監督のサインが必要であることを知らずに書類を提出し、不備で受理されませんでした。締切の1日前でしたが自分が福岡にいなかったので、監督に電話で頼み込み、急ピッチで書類を揃えて提出しました。また、エントリーの決断が遅かったため、12月に行われたBリーグのコンバイン(合同練習会)は、僕がドラフトエントリーした時には、すでにコンバイン参加期限が過ぎており参加できませんでした。
— では今泉選手のように、大学インカレを勝ち進み最後まで出場してからドラフトエントリーを決断する選手にとって、ドラフトコンバインへの参加はスケジュール的に難しいということになりますね
今泉:はい、僕の時はそうでした。
— プロを目指すにあたり、地方の大学でハンデを感じた部分はありますか?
今泉:人との繋がりはどうしても少ないと感じています。様々なカテゴリの指導者だったり、エージェントの方々との繋がりがあれば、そこからプロチームの練習に参加させてもらう機会もあると聞きます。地方の大学生と首都圏の大学生では、そういった部分での「差」はとても大きいと思います。僕はもしBドラフトで指名されなければ、Bワンでプレーを希望したいのですが、そうなったらエージェントの方々の力も借りて、プロ選手として契約を目指したいと考えています。
— 同じくドラフトにエントリーしている崎濱秀真選手との関係は?
今泉:コザ中学校時代の転校生同士であり、福岡第一高校でもチームメイトだったため、ライバルであり友人です。ドラフトの手続きについても、先に済ませていた崎濱選手に電話でやり方を教えてもらいました。
— 自身のプレースタイルや強み(武器)について
今泉:自分自身では「雑用ポジション」と表現してますが(笑)、ポイントガード(1番)からスモールフォワード(3番)までこなせるユーティリティ性が特徴です。福岡第一高校時代、井手口孝先生から様々なポジションを試してもらった経験から、1番や2番もこなせるようになりました。最大の武器はペイントタッチとドライブ、そこからのフィニッシュや多彩なパス(キックアウト)です。また、ガードとしては身長(約182cm)があるため、自分より小さい選手がついた際のポストアップも強みとしています。
— 生まれや沖縄に対する思いについて教えてください
今泉:生まれは神奈川県ですが、2歳の時に沖縄に引っ越してきたので、自分の故郷は沖縄だと思っています(両親は千葉・神奈川出身)。高校・大学と沖縄県外に出ましたが、試合で沖縄に戻った時や、離れていてもSNSを通じて、かつてのチームメイトや沖縄の人々が常に応援してくれていました。それが大きな支え、励みになりましたし、応援してくれる方々のためにも、試合に出場して頑張ろうという原動力になりました。
(取材日:2026年1月19日、写真提供:日本経済大学バスケットボール部)
崎濱 秀真 (新潟経営大学)

不屈の怪我を越えBリーグへ挑む司令塔
崎濱秀真 Shuma Sakihama プロフィール
所属:新潟経営大学
出身地:沖縄県
出身校:沖縄市立美里小→北中城村立北中城小→沖縄市立コザ中学校→福岡第一高校→新潟経営大学
生年月日:2003年8月21日(22歳)
ポジション:PG/SG
身長:181cm 体重:83kg
— Bリーグのドラフトにエントリーを決断した経緯と、その意気込み
崎濱:当初は大学でバスケットボールを辞めようと考えていましたが、4年生の最後のインカレ(全日本大学バスケットボール選手権大会)で北信越予選を突破できず、悔いの残る結果となったことが大きな理由です。まだバスケを辞める先が見えず、プロになりたいという意思が固まりました。
実は怪我が続いた時期があり、一度はプロへの道を諦めたこともありましたが、インカレ予選のトーナメント大会を通じて「やっぱりプロに行きたい」と再認識しました。また、2人の弟たちの存在も刺激になっています(崎濱秀斗:現 琉球ゴールデンキングス、崎濱秀寿:現 福岡第一高校)。秀寿がウインターカップで頑張っていたり、秀斗がプロ選手として活躍する姿を見て、自分も大きな舞台でプレーしたいという思いが強くなりました。
— 学生時代のバスケは苦難の連続だったそうですね
崎濱:高校時代に膝の大怪我(前十字靭帯断裂)を経験し、大学に入ってからも膝をかばって足首を痛めるなど怪我が続きました。しかし、怪我の原因を追求し、体幹トレーニングや体重管理を徹底することで、動きやすい体を見つける努力をしました。長いスパンで体と向き合いリハビリを続けた結果、大学3〜4年時には体の状態が良くなり、間違っていなかったと実感できました。現在はやれる手応えもありますが、シュートやドリブルなどのスキル面ではまだ努力しなければいけないので、今後もレベルアップしていきたいと考えています。
— バスケットボールを始めたきっかけと、中学・高校時代のキャリア
崎濱:小学生時代は、教員である父(崎浜秀勝さん:現 石川高校 女子バスケ部監督)の部活動によくついて行っていた影響でバスケが楽しいと思い、小学4年生の頃にミニバス(沖縄市立美里小→北中城村立北中城小)に入って本格的に始めました。
中学生時代は、沖縄市立コザ中学校に進学しました。当時コーチを務めていただいた松島良和先生のご指導で、バスケットボール選手として大きく成長出来た3年間だったと思います。当時はセンター(5番)ポジションで、とにかくコートを走り回る体力を武器にしていました。1年生の頃から県ベスト4、3年生の最後には全国大会(第48回全国中学校バスケットボール大会)に出場して、ベスト16という成績を残しました。
高校生では、 憧れだった福岡第一高校に、自分から志願して進学しました。入学当初は1学年上の河村勇輝選手(現:NBA)などが在籍していて、レベルの高さに圧倒されましたが、先輩方のアドバイスを受けて成長しました。しかし、2年生の冬に前十字靭帯を切る怪我をし、3年生はリハビリとコロナ禍が重なり、思うような3年間ではありませんでした。
— 新潟経営大学へ進学した理由と、大学での経験について
崎濱:父が新潟経営大学の女子バスケ部監督と繋がりがあり、そのご縁で男子バスケ部の監督から声をかけてもらったことがきっかけです。 キャプテンを務めた4年時には、周りのチームメイトと切磋琢磨しながらも、一人ひとりに寄り添いつつも、チームを鼓舞することの重要性を学びました。 大学に入ってからガードに転向しました。中学時代のセンター、高校時代のフォワード(3番)を経て、大学では監督から「ハンドラーになれば周りが見える」と言われ、3〜4年生頃からスタートのガードとして出場するようになりました。
— 自身のプレースタイルや強み(ストロングポイント)は何ですか?
崎濱:自身の強みは、アシストやゲームメイクです。誰の調子が良いかを見極めてゲームを作り、細かいアシストや試合の流れの中でのスティールで、司令塔としての役割を果たすことを得意としています。また、沖縄県外に出て「リズム感が違う」とよく言われるため、沖縄出身プレーヤー特有の独特なリズムで相手のディフェンスを崩すことも強みだと考えています。
— 初めて実施されるBリーグのドラフトへのエントリーや、ドラフトコンバインの経験はどうでしたか?
崎濱:最初はドラフトエントリーの手続き方法が全くわからず、大学のマネージャーと一緒に調べながら進めました。書類の不備でBリーグ側から指摘を受けることもありましたが、リーグの担当者の方から丁寧な説明を受けつつ修正して、何とか提出できました。12月に行われた合同練習会(コンバイン)にも参加しました。参加者の8割近くが関東の選手で、北信越地区からは自分一人だけでしたが、関東の高いレベルの中でも自分らしいプレーができ、ある程度アピールできたと感じています。同じコザ中学校・福岡第一高校出身の今泉太陽選手(ドラフトエントリー済)とはライバルであり友人です。彼に電話でドラフトの手続き方法を教えたりもしました。
— プロ入りに向けて、どのような選手になりたいですか?
崎濱:小さい頃から琉球ゴールデンキングスを見て育ちましたが、沖縄県以外のチームに行っても、沖縄出身の選手として活躍し、地元からも応援されるような選手になりたいと考えています。ドラフト当日は気負いすぎず、気楽に結果を待ちたいと思います。
(取材日:2026年1月13日)

下地 秀一郎 (日本大学)

宮古島の誇りを胸に抱き、常にチャレンジし続けた
下地 秀一郎 Shuichiro Shimoji プロフィール
所属:日本大学
出身地:沖縄県
出身校:宮古島市立南小学校→豊見城市立上田小学校→豊見城市立豊見城中学校→北陸高校→日本大学
生年月日:2003年4月7日(22歳)
ポジション:PG
身長:174cm 体重:78kg
— Bリーグのドラフトにエントリーした経緯と、その意気込み
下地:元々プロバスケットボール選手になりたいという強い思いがあり、今年からドラフト制度が始まるということで、自分の夢にチャレンジするためにエントリーしました。どのような結果になっても、それをしっかりと受け止め、プロになれるように頑張りたいという意気込みです。
— 幼少期のプロバスケ観戦の思い出や憧れの選手はいますか?
下地:小学生の頃、父と一緒に琉球ゴールデンキングスの試合をよく観に行きました。金色のユニフォームを着ていた並里成選手(現:ファイティングイーグルス名古屋)のプレーが好きで、憧れていました。
— バスケットボールを始めたきっかけと、小・中学校時代のキャリアについて
下地:教員でありバスケ経験者でもある父(下地秀隆さん)の影響で、幼い頃を過ごした宮古島では、いつも体育館に連れていってもらってバスケットボールで遊んでいました。小学2年生までは宮古島市立南小学校に通っていて、本格的にチームに入ったのは小学3年生の時、沖縄本島に引っ越してきて豊見城市立上田小学校で始めました。小6の時には副キャプテンを務め、全国大会(第47回 全国ミニバスケットボール大会)準優勝という結果をおさめました。
中学校は 豊見城市立豊見城中学校に進学し、3年次には沖縄県大会(第60回沖縄県中学校バスケットボール競技大会)で優勝、九州大会(第48回九州中学校バスケットボール競技大会)では2回戦まで進みました。また、琉球ゴールデンキングスU15の1期生(初年度)としても活動しました。当時のキングスU15はチーム発足したばかりでセレクションではなく、県選抜などの強化練習の場で当時の山城拓馬U15コーチ(現:バスケスクールGIVE & GOコーチ、バスケ解説者)に声をかけて頂いたのがきっかけでした。
— 福井県の強豪・北陸高校へ進学した理由と、そこでの3年間はどうでしたか?
下地:沖縄県外に出て挑戦したい、留学生とプレーしてみたいという思いがありました。北陸高校の久井茂稔先生から声をかけていただき、親とも相談して「ここで3年間頑張ろう」と決意しました。北陸高校では先輩や同期のレベルが高く、3年生までは試合に絡むことができず、練習についていくのがやっとという辛い時期もありました。3年生でキャプテンを務めてスタメンになりました。伝統ある北陸高校のキャプテンという重責とやりがいを感じていましたが、北信越インターハイは新型コロナの影響により3回戦前に辞退、ウィンターカップも本戦2回戦敗退と、結果が出ず苦しい思いをしました。
— 日本大学へ進学した理由と、4年間の経験を振り返って
下地:関東1部リーグでプレーしたいという希望があり、また当時日大の監督だった沖縄出身の城間修平さんと父の繋がりもあったため、高いレベルでのバスケットボールを学びたいと思い、日本大学への進学を決めました。
入学当初はレベルの高さに驚きましたが、2年生の新人戦頃から自分のプレーに自信を持てるようになり、インカレにも少しですが出場できました。そして3年次では、チームとしてインカレ優勝を果たしました。でも自分自身はまだ実力が足りず試合に出られず、チームの優勝は嬉しい反面、歯がゆい思いをしました。そして4年次では、キャプテンを務めさせて頂きました。日本大学は伝統的に学生主体のチーム作りの中で、時には意見が対立することもありながらも、チームを一つにまとめられるよう努力しました。関東リーグ戦は5位、インカレはベスト8で早稲田大学に敗れ、悔しい結果となりましたが、その時のベストは尽くせたとも感じています。

— 関東1部でプレーしている沖縄県出身選手との繋がりは?
下地:自分がシャイな性格なので積極的に交流することはなかったですが、2つ先輩の赤嶺有奎さん(豊見城高校 – 専修大学)や 嘉数啓希さん(豊見城高校 – 白鵬大学)などは以前から知っていたのでお話する機会もありました。あとは日本大学で共にプレーしてきた奥浜貫太(キングスU15 – 興南高校)とは、同じ沖縄県出身としてずっと一緒に頑張ってきました。
— 自身のプレースタイルや強み(ストロングポイント)は何ですか?
下地:「泥臭さ」が自身の持ち味です。ディフェンスやルーズボールなど、数字に残らない部分を第一に頑張ることを信条としています。またサイズが大きい方ではないので、アウトサイドシュートやドリブル、アシストなどのスキル面でも活躍を見出していきたいと考えています。
— ルーツである宮古島や、故郷・沖縄への思いを教えてください
下地: 生まれは豊見城ですが、すぐに宮古島へ行き、小学校2年生まで過ごしました。父が宮古島でバスケをしていた繋がりがあり、帰省して現地の体育館に行くと、多くの人が親戚のように温かく迎えてくれます。宮古島出身のプロ選手として、後に続く子供たちに夢を与えたいと思っています。また、高校・大学と沖縄県外に出ているからこそ「島から出てきているのだから頑張ろう」という沖縄県民としての誇り、ウチナーンチュとしての意識を持ってプレーしてきました。
— ドラフトエントリーの手続きやコンバイン(合同練習会)の経験はどうでしたか?
下地: 初めての試みで分からないこともありましたが、大学のマネージャーや監督に相談し、不備があればBリーグ側から指摘を受けて修正するなどして進めました。日大のチームメイト(新井楽人選手など)もエントリーしていたため、相談しながら手続きを進めました。ドラフトコンバインにも参加しました。参加者は50〜60人ほどで、関東の選手が8割を占めていました。顔見知りが多かったものの、いつもとは違う、引き締まった緊張感がありました。自分としては大きなインパクトを残せた手応えはなく、不安も少しありますがやれることはやりました。
— 進路選択において、実業団ではなくプロ一本に絞った理由は何ですか?
下地:日本大学の方針として、「実業団かプロか」のどちらか一方しか選べず、同時進行(保険をかけるようなこと)はできませんでした。そのため、実業団への就職活動はせず、退路を断ってプロ挑戦を決めました。もしドラフトで指名されなかった場合は、自分からプロチームに売り込みに行く覚悟ですが、不安も大きいです。でも両親は「あなたの夢なら応援する」と背中を押してくれました。必ずプロへの夢を叶えます。
(取材日:2026年1月20日、写真提供:日本大学男子バスケットボール部)
上間 玖龍 (九州共立大学)

恩返しを誓いプロへ挑む、名護のシャープシューター
上間 玖龍 Kuryu Uema プロフィール
所属:九州共立大学
出身地:沖縄県
出身校:名護市立羽地小学校→名護市立羽地中学校→沖縄県立美来工科高校→九州共立大学
生年月日:2004年1月27日(21歳)
ポジション:PG
身長:173cm 体重:73kg
— Bリーグのドラフトにエントリーを決断した経緯と、そのきっかけ
上間:当初、大学卒業後はバスケを続けるか迷っていましたが、大学3年生の終わりにB3リーグの山口パッツファイブに特別指定選手として加入した経験が大きかったです。そこで「自分も通用する部分がある」という手応えを感じ、B3よりもさらに上のレベルへチャレンジしたいという意欲が湧きました。また、小さい頃から続けてきたバスケットボールで、お世話になった人たちへの恩返しがしたいという思いもあり、九州共立大学の川面剛監督とも相談をして、Bリーグドラフトへの挑戦を決意しました。
— バスケットボールを始めたきっかけと、幼少期の環境について
上間: 小学校1年生の時にバスケを始めました。父が野球をしていたため、最初は野球をやろうと思っていましたが、2つ上の姉がバスケをしており、練習を見に行ったら楽しそうだったのでバスケを選びました。両親も「やりたいなら応援する」と言ってくれました。名護市の羽地(はねじ)小学校出身です。強豪チームというわけではありませんでしたが、多くの大人の方々が寄り添ってくれて、バスケの技術だけでなく、挨拶などの礼儀をしっかり指導してくれる方々のもとで楽しくバスケをしていました。
— 中学時代の経験について
上間:羽地中学校に進学しました。当時の顧問の先生(よなはやすし先生)はバスケ経験者ではなかったですが運動が好きで、バスケ部でありながら地区陸上大会や駅伝大会にも出場し、夏休みは陸上をやるなど「走る」トレーニングが多かったです。国頭地区大会では準優勝などして県大会には出場できましたが、県大会では初戦敗退が多く、上位には行けませんでした。 同世代の下地秀一郎選手(豊見城中学校出身)、崎濱秀真選手、今泉太陽選手(共にコザ中学校出身)などは、県大会でも優勝する雲の上の存在でした。今では今泉選手は同じ九州大学リーグで戦う中なので、連絡を取り合ったりしていますね。

— 地元・名護(北部)のバスケ環境について
名護のバスケ環境は非常に温かく、公園にリングがあったり、他校の先生でも自分のチームの生徒のようにアドバイスをくれたりと、周りの指導者との距離が近い地域でした。 名護出身の岸本隆一選手(現:琉球ゴールデンキングス)に憧れていました。僕が幼い頃には岸本選手や与那嶺翼さん(現:琉球ゴールデンキングスAC)などが名護でクリニックを開催してくれたのを覚えています。自分も身長が低かったため、岸本選手の「ココナッツスリー」のような長距離の3ポイントシュートを真似していました。
— 美来工科高校へ進学した経緯と、高校時代の強烈な思い出は?
上間:中学時代、県大会初戦敗退レベルのチームにいた自分に、美来工科高校の宇地原尚彦先生(現:前原高校 男子バスケ部監督)が声をかけてくれたことがきっかけです。実績も無かった自分を評価して頂き、とても嬉しかったのを今でも覚えています。当時はまだ美来工科は地域3部リーグのチームで、部員が集まるか不安もありましたが、声をかけてもらえた嬉しさが勝り、入学を決めました。
高校2年生11月の新人戦(令和2年度 沖縄県高等学校新人体育大会)で強豪・豊見城高校を決勝で破って初めて優勝しました。それから、美来工科と豊見城は、沖縄県内の大会ではいつも決勝で対戦するライバル関係でした。高校2年生1月の小橋川杯(第39回小橋川寛杯争奪高校生バスケットボール選手権)で美来工科が優勝、高校3年生5月インターハイ(令和3年度 沖縄県高等学校総合体育大会)では豊見城が優勝。最後の高校3年生10月のウインターカップ県決勝(第64回全沖縄高校バスケットボール選手権大会)では僕ら美来工科が優勝しました。夏のインターハイで負けた事がとても悔しくて、ウインターカップ予選までの練習は、常にマッチアップ相手をイメージしながら全員がピリピリとした雰囲気でした。

美来工科の特徴だった「アップ前のトレーニング」が一番の思い出です。練習開始2時間前に、心拍数を一気に上げる過酷なトレーニングを週3回行っていました。これによりフィジカル負けしない身体を作ることができましたし、辛いトレーニングを皆と乗り越えたのは良い思い出です。今でも高校時代の経験が活きていますし、美来工科で成長させてくれた宇地原先生には感謝しています。
— 九州共立大学へ進学した理由と、大学での挫折・成長について教えてください。
上間:九州共立大学の監督(川面剛さん)から声をかけていただいたこと、地元名護の先輩や沖縄県出身の選手も進学していて、先輩の背中を追いたいと思ったことが理由です。 1年目は親元を離れて気持ちが緩んでしまい、バスケへのモチベーションを失って腐っていた時期がありました。しかし、1年生の終わりに川面監督から「Aチームでチャレンジする気持ちはないのか?」と声をかけられ、4年生の先輩が頑張る姿を見て「やりたいです」と答え、2年生からAチームに上がりました。 2年生から試合に出場し、西日本大会ベスト8などの成績を残しました。1学年先輩だった大庭 圭太郎選手(現:サンロッカーズ渋谷)など先輩方から多くを学びました。
— 九州の大学バスケットボールのレベルについて、どのように感じていますか?
上間:非常にレベルが高いと感じています。九州には福岡第一高校や福岡大学附属大濠高校といった、高校バスケ界のトップレベルで活躍するチームがあります。 もちろん、そうした高校の主力選手の多くは関東や関西の大学へ進学しますが、その中でも試合に出ていた選手たちが九州の大学に残ってプレーすることも結構あります。そうしたハイレベルな高校出身の選手たちとマッチアップできるため、九州大学リーグのレベルは決して低くないと実感しています。
— 具体的に、九州に残っている強豪高校出身選手たちのどのような点にレベルの高さを感じましたか?
上間:特に「ディフェンスの強度」です。例えば、福岡第一高校出身の選手などはディフェンスの強度が非常に高く、対戦していて「厄介だな」と感じる選手が多いという印象を持っています。 関東や関西に行かなくても、こうした強度の高い選手たちと日常的に戦え、さらに試合に出場して経験を積める環境があることは、自分にとって非常に大きかったと感じています。
— インカレ(全日本大学バスケットボール選手権大会)などで関東・関西の大学と対戦する際、どのような心境でしたか?
上間:「やってやろう」という気持ちと、「注目を集めたい」という気持ちが非常に強かったです。 インカレで対戦した同志社大学(関西)などには、帝京長岡高校でウィンターカップ準優勝を経験した選手や、ネットメディア等で取り上げられる有名な選手がいました。関東や関西の注目度が高いチームや選手に対し、自分はドラフトにエントリーしている立場でもあったため、「ここで活躍して注目されたい」「負けたくない」という思いが強く、特に燃えました。
— 自身の経験を踏まえ、今後の大学進学を考える沖縄の後輩たちに伝えたいことはありますか?
上間:もし進路に悩んでいる後輩がいれば、絶対に九州の大学を勧めたいと思っています。九州にいながらにして全国レベルの高校出身者と戦える環境があり、そこで試合経験を積むことは大きな成長につながるからです。関東・関西への進学だけが正解ではなく、九州でも十分に高いレベルで揉まれながら成長できると実感しています。
— ドラフトエントリーの手続きや、コンバイン(合同練習会)について教えてください。
上間:手続きを完了させるのは苦労しました。初のBドラフトで誰も経験者がいない中で詳細も分からず、リーグがネット公開している情報で調べたり、PDFを印刷して手書きしたりと苦労しました。書類の不備でリーグ側から指摘を受け、追加書類を提出するなどやり取りが発生しましたが、丁寧な説明のおかげで完了できました。ドラフトコンバインは参加予定で、飛行機の予約も取っていましたが、直前にインフルエンザにかかってしまい参加できませんでした。関東や関西の選手に負けたくないという気持ちがあり、アピールしたかったので非常に残念でした。
— ドラフト当日や今後の進路についての予定は?
上間:ドラフト当日はおそらくトレーニングしていると思います。もしドラフトで指名されなくても、Bワン・Bネクストの門を叩き、最終的にBプレミアを目指すつもりです。夢を諦めず、お世話になった方々への恩返しのために挑戦を続けます。
— 沖縄への思いや、応援してくれる人々へのメッセージをお願いします。
上間:県外に出て、沖縄県民の「絆」や「愛」の強さを改めて感じました。九州で生活する中で、バスケ関係以外の方からも応援の声をいただき、それが大きなエネルギーになっています。沖縄からプロになる選手はまだ少ないかもしれませんが、応援してくれる人々の力は大きいので、沖縄からプロを目指す後輩たちも希望を持って頑張ってほしいと思います。
(取材日:2026年1月22日、写真:本人Instagramより提供)
今回インタビューした4人の選手は、沖縄でバスケットボールに出会い、プレーヤーとして成長する過程で共に戦い、互いに切磋琢磨してきた。そして沖縄という小さな島を離れて、より高いレベルへ挑戦するなかで、全員が「自分たちの成長を見守ってくれた沖縄への感謝の思いを感じた」と話してくれた。
日本バスケットボールが新たなステージに進む中でも、この小さな島から羽ばたく若者たちは、沖縄への感謝と恩返しを胸に挑戦を続けるのだろう。その思いは、将来彼らに続く若者たちも変わらないはずだ。頑張れ、ウチナーンチュバスケットボールプレーヤー。
(取材:金谷康平、取材・構成・文:湧川太陽)

